古代中国のソレスタルビーイング?/新左翼の「経済」

浅野裕一墨子』(講談社学術文庫)読了。諸子百家の古典『墨子』の抄訳(読み下しと原文を付す)と解題、墨子思想の解説で構成されている。同じく学術文庫に『諸子百家』での墨子の概説と重なるところもけっこうあったので、そのおさらいも兼ねて内容がするする頭に入った。非攻兼愛(Love & Peace …& 鉄の規律)などの十論を思想の根幹にすえ、戦争を最大の悪と喝破し、大国の侵略に晒される城郭都市を守るための防御専門の精鋭ハイテク軍事組織も擁していた墨子学団は、おおざっぱに言えば『ガンダム00』のソレスタルビーイングみたいなことを二千数百年前に実践していたのだ。もちろん、腐女子が喜ぶ絵物語と違って、墨子の理想は現実の前についえたのだが……。春秋戦国時代には孔子儒学と天下を二分するほど(といってもインテリのなかの話だが)の勢力を誇った墨子の学(軍)団も、秦始皇帝による中華統一で徹底弾圧を受け、うなぎのような処世術で生き残った儒学の徒からは「異端中の異端」とされ、2000年以上に渡って「絶学」状態となっていた。しかし、清末に西欧列強の侵略にさらされた儒教の影響を脱しようともがく中国知識人の手でにわかに再評価されることになったという。それだけに近代的なイデオロギーによる恣意的な読みが横行していたと本書の「解説」で述べられている。ということで、本書はそのような雑駁な「読み」を克服した本格的な墨子入門なのである。浅野先生は、墨子思想の研究で修士論文を出したそうだ。儒学に対する厳しい見方も、その最大の論的であった墨子墨子自身は孔子より後の人)の眼差しから示唆を受けていることが多いのだろう。論理を重視し、噛んで含めるように読者を説得する墨子の文章は、中国の知識人から好まれなかった。しかし、ブッダの初期経典のスタイルに慣れた人には違和感なく読み解けるだろう。墨子は人間の心の分析には無頓着だったし、その思想には様々な不備や弱点があったが、人間の利己主義を争乱の元と断じ、人々の平和と安穏のために奔走したその生き様には惹かれるものがある。特に墨子が楚国による宋国侵略を踏みとどまらせるため、単身楚に乗り込んで王を説得したエピソード(恐らく墨子にとって数少ない「達成」の記録であったろう)を伝える「公輸篇」は浅野先生の名訳も相まって、冒頭から末尾まで構成の行き届いた、上質な短編小説のような感動を与えてくれる。墨子を題材にした小説としては、酒見賢一の『墨攻』(マンガ化、映画化のされた)があるが、「公輸篇」の美しさは原典だけにそれを上回る輝きを放っている。いつか墨子その人の生き様を描いた文学作品が書かれることを願って止まない。

小説『墨攻酒見賢一の短編。期待して読むとあっさりしすぎ、と思うかもしれない。巧いけど。

マンガ版『墨攻酒見賢一の原作分のエピソードを消化した後の、森秀樹オリジナルの展開がむしろ面白かったりする。墨子は日本人の理想のルーツであると。

映画『墨攻』未見。僕にそっくりの人が出てると言われたんだけど、誰だろ?

荒岱介新左翼とは何だったのか?』読了。著者は元新左翼党派(いわゆる過激派、極左暴力集団ゆーやつ)の代表でいまはエコのヒト。親父と同じ年じゃん。うーむ、あまりにもありがちなパターンだが、彼の場合はごく最近まで党派の領袖であり続け、自分の思想転向にともなって、党派そのものをマルクスから卒業させて路線転換させてしまったわけで、現役の「活動家」であり続けているのだ。本書はコンパクトな新書の枠内で、いまや完全に過去の遺物と化した、知る人も少ない新左翼運動について、その来歴から現在まで、個人的な豊富すぎる体験を踏まえて解説している。警官を襲撃して殺すのは「殲滅」で、自分達の仲間がデモのどさくさで死んだら「虐殺」で、そーゆー習い癖が抜けてないあたり、多少の基礎知識の無い読者には強烈な違和感を感じさせるだろうが、よくまとまっていて、すいすいと読めた。特に面白かったのは、第四章「新左翼自治会・労働運動」の前半部で、学生運動の退潮期に運動を支えた自治会支配の内幕について、あけすけなディスクロージャーがなされている(実例として上げられているのは私怨ある?明治大学)。「最末期の学生自治会運動というのは、カネ(自治会費)と場所(学生会館)、独占的な権益(学園祭)、自分たちの天下り先(大学生協)を獲得する利権の場になっていたという言い方もできます。」(132P)というのは、関係者には自明のことかもしれないが、某大学でなぜ学園祭が開かれないのか?とか、なんで某大学の生協職員が時々刺し殺されたりするのか?とか、大学を舞台にして起きる不思議な現象の謎ときになっている。知られざる新左翼の「経済」の一端が垣間見えて興味深かった。あと、新左翼と言えば学生運動だが、70年代以降は実際は労働運動の現場でけっこう実績を上げているんだぞ、というのも勉強になった。しかし第五章でのオモチャみたいなゲリラテロ自慢?や、第六章の内ゲバの凄惨な描写と不条理な屁理屈(敵対党派への復讐を誓う完全にイッちゃった檄文の引用など)を紹介したあげく、「筆者も、彼らと同じように組織内の内ゲバや党派闘争を体験したことは数々あります。……ただ、それはどれだけ厳しくても、規則は不明ながら暗黙のルールがあるスポーツのようなゲバルト合戦の延長であって、目的意識的に人を殺すこととは無縁でした。」(215P)としれっと言ってのけるセンスには、ドン引き。ちょっと付いて行けなかった。池田信夫の言葉じゃないが、環境運動というのも一種のパターナリズムだから、武装闘争していた人でも、案外心理的なハードルは低いのかもしれない。願わくば、仏教の本も読んでみて下さい。

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