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電書新刊:初期仏教の「女性・男性」論: 女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です (初期仏教の本)

スマナサーラ長老の電書新刊が出ます。

制作過程で何度となく読み返しましたけど、ズバッと明快なロジックで語られる初期仏教の教えのなかでも、この女性・男性論ってどうも現代人の常識の延長で考えるとモヤモヤというか、護教論くさいところが残っちゃうテーマなんですね。スマナサーラ長老のこの論考を読んでも、それで完全に納得というわけにはいかないかも知れません。でも、常識のメガネを引っ剥がすような論点が随所で提示されているので、自分でものを考える上でのヒントになると思います。

「仏教は女性差別の宗教である」と、時として言われます。比丘尼のサンガ(僧団)は比丘のサンガの管理下におかれ、礼を尽くすことになっている戒律なども、女性蔑視だと感じられる要因かもしれません。
また、一部のパーリ経典に「正等覚者sammāsambuddha(サンマーサンブッダ)になるのは男性です。女性はなりません。これは、一般人に理解できない、不可思議な法則の一つです」という言葉があります。
この「正等覚者」というのは、迷信を信じていて真理を発見していない世界で、初めて真理を発見して説く覚者、つまりお釈迦様のような方のことです。一部の経典では、「正等覚者になれるのは男だ、女には無理だ、不可能だ、あり得ないのだ」というのです。ひどい女性蔑視に聞こえます。「仏教は女性差別」という指摘を裏付けるようにも取れます。
仏教はやはり女性蔑視なのか、女性、男性という性別のことを仏教ではどう考えているのかというこのテーマについて解説したいと思います。

目次
1仏教の女性論・男性論
 仏教は女性蔑視?
 仏教は男女平等には興味がない
 「男女平等」という発想自体が問題
 なぜ女性蔑視が生まれたか
 各民族の神はほとんど女神だった
 どんな「論」でも凶暴なら通用する
 勝手な価値観でつくられた社会
 なぜ女性は抑圧されるのか
 生命の本質は身体と心
 生命は皆、同じ
 男性、女性。その定義
 アビダルマによる「男」「女」解説
 生命はかならず、「男」か「女」
 性色の機能次第で性別は明確になる
 性色のはたらきは業にも左右される
 禅定は性別がなくなる
 「男性・女性」に関する仏教の結論
 心には性別がない
 「男らしい」「女らしい」に傾く心
 異性の性質は持っていない
 心の影響は身体にも現れる
 修行の場での男と女
 女性は出家したら管理できない
 解脱の境地に性別はない
2一般社会の女性論
 女性の辞書に「控えめ」はない
 女性差別主義者をつくるのは女性
 女性の優れた管理能力
 生む、育てる、守る
 優しさという管理
3一般社会の男性論
 男性は脇役
 暇な男性のやること
 男の役割
 男の勘違い
 「正等覚者」はなぜ常に男性か
 それでも男は惨め
4男女論から生命論へ
 異性は理解できない
 「相手を理解している」という誤解
 他の生命を理解する方法
 男・女ではなく、生命として生きる

 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~