『破戒と男色の仏教史』とその周辺

破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)

破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)

破戒と男色の仏教史 (平凡社新書 441)松尾剛次

かなり下世話な雰囲気のタイトルと「僧侶の身体論」云々と言う帯の言葉のギャップが微苦笑を誘うが、内容は間違いなく面白い本。まず目玉としては、13世紀の東大寺で優れた学僧として知られた宗性(1202-1278)にまつわる、性生活に関する文書の内容が衝撃的である。彼は「これまで95人の男とセクロスいたしてきたが、100人までで止めます。どーか来世は兜率天に往生し、弥勒菩薩のもとで修行できますように」などと、唖然とするような誓願文を残していたのだ。

中世の仏教寺院では、僧侶が自坊に身の回りの世話&性交相手として稚児を置き、同性愛にいそしむことが当たり前だった。日本の「都市」は比叡山東大寺興福寺といった巨大仏教寺院での需要を満たすために形成されていった。いわゆる日本文化の構成要素のほとんどが仏教寺院で生まれ、俗世間に広まっていたのである。セックスに関してもしかり。近世まで盛んだった「男色」という習慣もまた、寺院社会から俗世間へと広まっっていったのではないかと著者は示唆している。

本書は戒律をめぐる葛藤という側面から日本仏教の歴史を辿った本であって、寺院における男色はそのなかのエピソードの一つに過ぎない。「身体論」というモノイイが妥当か分らないが、仏教における戒・定・慧の三学の要である戒律とその運用(布薩や法臈など)に基づく僧侶社会の自律性の確保についても詳述しており、大乗僧侶が書いた本にありがちな、戒律軽視をあらかじめ正当化するような偏向した記述もみあたらない。その点はさすがまじめな学者である。また仏教徒としても、ビール好きの著者がタイで出会った「五戒を守る在家仏教徒」について、決して見下した態度を取っていないのは、人として立派だ。

ちなみに第一章では、日本仏教で重視される梵網経(中国で編纂された大乗経典。偽経)の菩薩戒について紹介してあるが、それはむしろ比丘の具足戒の内容をさらに徹底させるような厳しい内容である。大乗仏教の僧侶が「声聞の持戒は菩薩の破戒」などとうそぶくことは、まさに天に唾する行為でしかない。

戒律がほとんど守られていなかった現状はあるにせよ、国立戒壇として機能してきた東大寺戒壇で受戒した僧侶は、一人前の僧侶として国際的にも認められていた。鑑真の招来と戒壇設置は、日本仏教を「世界標準」レベルに引き上げようという悲願の現れであった。

一方、(最澄の「怨霊」を恐れた朝廷によって彼の死後七日目に認可された)比叡山の大乗戒壇は、比丘に必須なはずの具足戒を授けずに大乗菩薩戒のみを授けるものだったので国際的な権威がなかった。いわばもぐりの戒壇だったのだ。ゆえに中国に留学する天台系の僧侶は、東大寺戒壇で受戒したことをしめす度牒を偽造することが普通だった。このあたりも、僧侶が書いた本ではぼかされることが多いが、日本仏教の実相を知る上で欠かせない情報だろう。

第三章では、中世の戒律復興についても詳しく紹介される。叡尊らの戒律復興は、むしろ「鎌倉新仏教」のメインストリームであったこと、近世・近代においても、仏教復興運動は必ず戒律の復興とともにあったことが指摘されるのは興味深い。手前味噌的に言えば、具足戒を守る比丘と五戒を守る在家信徒によって担われるテーラワーダ仏教が現代日本で受容されている背景にも、まじめな仏教徒による「戒律復興」の願いがあることは自覚しておきたい。

とりとめないが、最後に関連書籍も紹介しておこう。

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

個人的に2008年新書暫定ベスト1とさせていただいている伊藤正敏『寺社勢力の中世』は、中世の仏教を理解するうえで欠かせない本だ。「日本における都市とは、中世五〇〇年の間、朝廷・幕府と日本を三分していた寺社勢力、すなわち比叡山東大寺高野山根来寺など大寺院の境内都市であり、それらには摩天楼(仏塔伽藍)が聳え立ち、あらゆる産業が集積され、農村の共同体(有縁)からはみ出した人々を無条件に受け入れる匿名性を担保される空間(無縁)であった。境内都市は、現代にまで通じるあらゆる日本文化のゆりかごでもあった。そもそも京(京都)は近世まで比叡山の門前であった……」

近世仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践

近世仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践

西村玲『近世仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践』こちらは2008-08-21の日記で紹介した専門書だが、「江戸仏教のマイノリティたる律僧(いわゆる小乗戒を実践する清僧)でありながら、増上寺で講義を行うなど朝野の尊敬を集めた普寂の思想を手がかりに、富永仲基らによる伝統的な仏教世界観の解体(出定)に仏教者はいかに向き合い、乗り越えようとしたかを浮き彫りに」した熱い本。

大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史

大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史

最後は手前味噌だが拙著『大アジア思想活劇』を挙げておく。近代日本仏教における戒律復興をリードした釈雲照(慈雲尊者の系譜に連なる)やその弟子で日本最初のテーラワーダ比丘となった釈興然(テーラワーダ僧名:グナラタナ。明治時代にスリランカへ留学)について紹介している。

〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜