「グリーン・ファーザー」杉山龍丸

グリーン・ファーザー―インドの砂漠を緑にかえた日本人・杉山龍丸の軌跡

グリーン・ファーザー―インドの砂漠を緑にかえた日本人・杉山龍丸の軌跡

『グリーン・ファーザー―インドの砂漠を緑にかえた日本人・杉山龍丸の軌跡』杉山満丸(ひくまの出版)読了。猛烈に感動した。

杉山龍丸の長男の満丸さんが、父のインドでの緑化事業の軌跡を訪ねたドキュメント。福岡の郊外に四万坪の杉山農園を明治の時代にアジアの農業開発の実験場としてつくりあげた曽祖父・茂丸、その志を文学の領域で開花させようとした祖父・泰道(夢野久作)、そして、戦後、杉山農園をなげうってインドの荒廃した地に緑の木を植えつづけた父・龍丸。これは、その杉山三代にわたる壮大な夢の叙事詩である。

杉山茂丸、杉山泰道(夢野久作)に続き、杉山家三代の掉尾を飾る杉山龍丸がインド緑化に尽くした知られざる足跡を、その息子が辿ったノンフィクション作品。テレビ番組の制作と並行して書かれた作品のようで、踏み込みは浅いが、祖父が築いた杉山農園の全ての土地を売り払い、インドの砂漠を緑に変えた杉山龍丸の偉大なる事跡を知らしめただけでも価値の大きな作品だと思う。杉山龍丸の生きざまに、「アジアの草莽」という言葉が浮かんだ。杉山龍丸とインドとの縁を結んだのは日本山妙法寺の佐藤行通上人だったというのも興味深い。その辺りの経緯については、「谷底ライオン」HPが詳しい。

上記HPでは、杉山龍丸氏関連文書アーカイブと、フィリピン戦線で飛行第三十一戦隊整備隊隊長としての従軍した当時の記録を基にした手記「幻の戦斗機隊」(1983年)が読める。

 この記録を読まれた人々において、或は、私が、この記述の中に、日本の敗戦は、既に予期していた如く述べ、また、日本軍の大本営、各軍司令部、その他の司令部の作戦指導やその他、特に、戦争そのものについて、批判や、誤りと断定していることに、疑問を持たれるであらう。
 私は、陸軍士官学校に在学中も、また、飛行第三十一戦隊に勤務中において、私の生まれた、杉山家について、祖父杉山茂丸や、父夢野久作のことは、少しも口外したことが無く、一陸軍航空技術将校として勤務した。そのような、末端の一将校であるものが、日本政府、大本営、軍司令部を批判する素養と、資格があるかどうかを、疑問に思はれるであらう。
 日本政府に関しては、近衛公麿、広田弘毅、その他の中枢の人々は、祖父杉山茂丸に師事した人々であり、天皇、皇后の御成婚にも関係し、陸軍については、児玉源太郎大将、山県有朋以来、陸軍の元帥、大将等の人々は、皆、杉山家と関係があった人々であった。 
 この様な事において、杉山家は、第二次大戦に、日本が、自ら突入すべき運命の原因、朝鮮の植民地化、満州の占領、中国の抗日戦となって行った、歴史の本質を知り、それらの事実を知っているものとして、陸軍士官学校時代から、三国同盟に反対し、第二次大戦の太平洋戦争は、速やかに停戦講和すべき運動に努力して、力及ばず、軍命によって、比島戦に参加せざるを得ぬ運命になった者であった事において、私の此の記録の中に記した事は、私の眞実のものを述べたことであることを、承知して頂きたい。
(幻の戦斗機隊 あとがきより)

杉山家三代が歩んだ歴史の重みを感じさせる言葉だ。

のちにインドの青年たちの教育支援に乗り出した杉山龍丸は、インドの若者が日本に来るたびに神社へ連れて行き、うっそうと茂る鎮守の森を見せて、「日本では、昔から森を大切にしてきた。その象徴が、全国の神社の森、つまり鎮守の森だよ。日本の水がきれいなのは、山や野に、木があるからだ」と教えることを忘れなかったという(『グリーン・ファーザー』57p-58p)。

日本人はインドから仏教という媒体を通じて筆舌に尽くしがたいほどたくさんの文化的恩恵を与えられてきた。しかしその仏教を荘厳するために行われた寺院造営・仏塔造営も含め、インドで花開いた文明は森を燃やし、土の中の命を焼き殺すことで発展してきた。そうして荒廃しきったインドの大地に、森を尊び緑を育てる日本のスピリチュアリティ(霊性)を身をもって注ぎ込んだのが、杉山龍丸であった。アジアの近代史は決して一方通行ではなく、相互に響き合いながら、滔々と流れているのだ。