沢庵和尚、業を語る(3)

月例講演会とテレビの収録(表の日記)。

『東海夜話』書写。

(承前)…状に相応の心もたんには如かじ、人と智を輝かせば我も負けじと争ふ、荘生も云ひしごとく、智也者争之器也(智なるものは争いの器なり)と、人高きに処れば、我争て卑(ひく)きに処らんと勤む、水は卑きに下る、争うことなしとて、老子も道徳(道徳経)に譬へたり、この世のことを書かば儘きじ、言ふとも窮りなけん、都て愚痴のなす処なり、貪瞋の二つ痴より起れば、つまる所愚痴の一つなり、人間のあらゆる悪事は、皆愚痴よりすることと思ふべし、この愚痴は生付きて改められぬ物なりと儒者は思へり、佛法にては貪瞋痴の三毒は、修行して取除ける者なり、愚は黄連の苦く、甘草の甘きが如くにて天然なれば取り除けられぬ物なりと思ふは愚なり、愚取除けられぬ物ならば、人間の一切の所作は、一も仕課られぬこと一切の所作につきて皆その所作の上の智と愚と有るべし、弓作が弓を作るにかうすれば弓よし、かうすれば弓却りて悪しと云ふことを心得せられば、弓を作る智が暗くして、現はれざるなり、然るに弓を能く修行したればこの智発す、この智発明すれば愚已(すで)に剥げ去る、愚既に剥げ智現はる、修行せずして物の上手と云ふことなし、矢造も同じ、太刀、長刀作る者も同じ、百工の所作、何かこれにかはるべき、まして又三教(神佛儒)の道や、然れば愚は剥げる物なり、之を剥がして智者にならまじきことならずや、一能をよく修行すれば、一能の智者なり、その能の上には愚なし、これ愚を剥がして智を現はしたる人なり、此の如く一切の上に一切の愚あれども、修行すれば一切の愚皆剥げて一切の智現はる、道は一切にわたる物なれ、道をあきらむれば一切の上に智明かなり、(続く)
(『東海夜話』より)

老荘を引いて自他を競争に駆り立てる知識を批判し、人間を不幸の原因は「愚痴」であると指摘する。人間の「性」を生まれつきとする儒者の浅薄な人間理解を一蹴して、「佛法にては貪瞋痴の三毒は、修行して取除ける者なり」と明言する。智慧の開発を工人の熟練に譬えているところも具体的で腑に落ちる。修行によって愚痴(無明)を破って智慧(明)に転ずるという仏道修行の意義がよく表現されていると思う。

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