慈心不殺(観無量寿経より)

午前中は学芸大でミーティング。今日は電車で。
恭文堂で文庫三冊購入。帰宅してから読んだ。

岩波の『浄土三部経』は以前上巻(無量寿経)だけ買っていた。三つの経典を読み比べてみると、やっぱ「観無量寿経」が長さも手ごろでいちばん理路整然としてるかな。他の二経にくらべて悪く言えば「作文」臭が強い。浄土教浄土教なりに既存の部派仏教と後発の大乗をまろやかに統合しようという意図が感じられる。明らかにファナティックな「法華経」や、気宇壮大に見えて実はすごく狭量な「大般若経」に比べて、大乗経典にしては品がいいほうかも。浄土三部経だけ読めばそうだが、ゴリゴリ苦行主義の『般舟三昧経』あたりが浄土教のルーツと考えると、浄土教全体が穏健とも言いきれない。

観無量寿経」によれば、なかなか禅定に入れない凡夫で「大乗経典(方等経)を誹謗しない」という条件を満たさない仏教徒(浄土教ができた当時の主流派たる部派系仏教徒か?)であっても、五戒を守ってまじめに生きれば、死後は「中品上生」として浄土に生れて、如来のお説教を聴いて阿羅漢に悟れるようだ。ああ、よかった(笑)。不真面目な仏教徒でも一日でも八斎戒を守れば「中品中生」で浄土行き。五戒守らなくても親孝行したり社会人として義務を果たせば「中品下生」で浄土行き。あ、ありがたすぎるぜ。大乗経を「嘘ばっかこくんじゃねーよ」と誹謗しちゃうと資格がなくなるはずの「上品上生〜上品下生」でも、よく読むと、極楽に文句なく行けちゃう(当得往生)衆生の筆頭は「慈心不殺、具諸戒行(慈悲喜捨の四無量心を育てて生命を害さず、戒律を守って生活する)」の者なのだ。じゃぁ、テーラワーダ仏教徒は、まじめにやってればほぼ全員、極楽往生しちゃうじゃん。わーい、ウソでもうれしいわ。

日本の浄土教(浄土宗や浄土真宗)の特殊な読み方を離れると、なんとも鷹揚で明るい浄土経典の側面が浮き彫りになってくる。中国仏教のお念仏がやったら明るいのもその所為かな。

それにしても、「慈心不殺」とゆーのはいい言葉だ。浄土系の宗派は、教義にとらわれずに、この言葉をもっと積極的に打ち出せばいいのにね(もしすでに打ち出していたら善哉です)。

選択本願念仏集 (岩波文庫)

選択本願念仏集 (岩波文庫)

日本浄土教の祖、法然上人の『選択本願念仏集』は論旨明解でしかも短くてとても良い。1時間で読めた。選択しすぎだっつーの!とツッコミどころ満載の内容はともかく、「二河白道」の喩えは文学的に素晴らしい。すごいインパクトで映像が浮かんでくる。本書のオチのところで、

 静かに以(おもん)みれば、善導の観経の疏は、これ西方の指南、行者の目足なり。……なかんづくに、毎夜に夢の中に僧あって、玄義を指授す。僧とはおそらくはこれ弥陀の応現なり。しかれば謂ふべし、この疏はこれ弥陀の伝説なりと。いかにいはんや、大唐に相ひ伝へて云く、「善導はこれ弥陀の化身なり」と。いかれば謂ふべし、またこの文は、これ弥陀の直説なりと。既に写さむと欲はば、一(もっぱ)ら経法の如くせよと云ふ、この言(ことば)、誠(まこと)なるか。

とあるのは、大乗仏教が「幻視仏教」たる面目躍如ではないかと思う。また、日本仏教が「祖師教」になっていく思考過程が読み取れるようで面白い。善導が阿弥陀仏の化身だというなら、法然が勢至菩薩の化身であっても不思議ではない。そういう観念がどんどん俗化して、親鸞の血統が神の一族扱いされるに到るまで、そう遠くはないだろう。

法然は根っからのドインテリでそれを半ば恥じているような人格者だったのではないか。その言葉は「知識人批判」として読むとむしろグッと来るように思える。ひじる似非インテリの胸にも刺さってくる。でも根っからのドインテリゆえの弱点、迂闊さも否めない。行学のバランスの取れた仏教者だった明恵が、本書を読んで烈火のごとく怒ったのは無理もないだろう。考えすぎて、仏教を壊してはいけません。

道元「永平広録・頌古」 全訳注 (講談社学術文庫)

道元「永平広録・頌古」 全訳注 (講談社学術文庫)

大谷哲夫先生の『道元「永平広録・頌古」 全訳注』は、まぁ、楽しみにチビチビ読みます。

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