島田裕巳『天皇は今でも仏教徒である』サンガ新書 象徴天皇の「菩薩行」とは?

島田裕巳さんの新刊『天皇は今でも仏教徒である』サンガ新書、読みました。

天皇は今でも仏教徒である (サンガ新書)

天皇は今でも仏教徒である (サンガ新書)

 

これまで天皇が、自らの信仰は仏教であると公言したことはない。しかし、明治に入るまで、天皇の信仰の中心にあったのは仏教にほかならない。古代から中世にかけて、代々の天皇は仏教に対する強い信仰を持っていた。代々の天皇の熱心な信仰がなかったとしたら、果たして日本の社会にこれだけ仏教は浸透したであろうか。天皇の仏教信仰は、個人的な次元にとどまらず、日本社会全体に多大な影響を与えたのである。天皇が象徴行為を模索した背景には、仏教を信仰して菩薩行に励んだ光明皇后貞明皇后がいるのではないか。天皇と仏教との関係は深い。その関係がいかなるものか、本書において明らかになる。

主要目次:

1 近代が大きく変えた天皇の信仰
2 なぜ天皇は仏教を選んだのか
3 仏教にのめりこむ代々の天皇
4 天皇と仏教界の深い結びつき
5 なぜ天皇は仏教の信仰を失ったのか
6 近代の天皇と宗教
7 象徴天皇の菩薩行

◆よいところ

「歴代天皇と仏教信仰」あるいは「皇室と仏教」という、あまり触れられることのなかった日本史の太い縦糸を古代から近代まで通史的に概観できる、便利でありがたい本だと思います。去年の「ひじる仏教書大賞」に輝いた『近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代』法蔵館でも、天皇あるいは皇室と仏教の関係を扱う項目は見事に抜け落ちていましたからね。

近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代

近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代

 

ネットでも内容の一部が読めます。

president.jp

◆いまいちなところ

ただ、新書という制約はあれど、肝心の表題「天皇は今でも仏教徒である」の論証はちょっと弱いので、状況証拠をもっと提示してほしかったところです。基本的には山口百恵は菩薩である」というのと同じ類の願望含みの断定(当時のノリはよく知らんけど)から脱しきれていない気もしました。

史記述についても不満がのこります。明治維新の際、還俗の圧力に抗して仏教信仰を貫いた日榮尼ら3人の皇族出身女性についてまったく触れられていないのは(ページ数の制約のせいでしょうが)いささか寂しく思いました。かなり劇的で盛り上がるエピソードのはずなんですけどね。

naagita.hatenablog.com

昭和天皇と仏教との関わりについても、具体的な記述は見当たりません。しかし昭和天皇最晩年の御製「夏たけて堀のはちすの花みつつ仏のをしへおもふ朝かな」はよく知られていますし、日本の敗戦に際して天皇仁和寺で出家(退位)させて戦争責任追及を免れようという珍妙な計画が練られた話も昭和史マニアには有名です。そのへん、あっさり割愛されているのはなぜだろうと首をかしげてしまいました。

実は、かつてスマナサーラ長老と一緒に伊勢神宮を参拝した際にガイドしてくれた神宮広報の方が、昭和天皇は晩年には仏教に惹かれていたとやけに強調されていた(リップサービスかも知れませんが、神宮と仏教の深い関係を詳しく説明してくれました)ことが記憶に残っていたので、ちょっと肩透かしを食らった感じがしました。

◆象徴天皇の「菩薩行」とは?

現代の天皇は「主権の存する日本国民の総意に基く」(日本国憲法第一条)日本国の象徴です。いまの天皇の信仰について論じた(想像をたくましくした)最終章は「象徴天皇の菩薩行」と銘打たれており、日本人の宗教観(日本国民の総意)のありかを問い直す射程の長い考察になっています。味わって読みたいところです。

平和憲法を体現した象徴としての天皇の行為(被災地への見舞い、追悼と慰霊の旅など)を「菩薩行」と位置づけた島田さんの結論は、決して奇をてらったものと言い切れないでしょう。ただ、いまの天皇の行動に仏教の影響を見出そうとするならば、美智子皇后の思想や交友関係について、もうちょい触れてほしいと思いました。

僕の乏しい知見から具体的に挙げるならば、美智子皇后鶴見和子南方熊楠研究)、そして鶴見和子との縁で引き合わされた石牟礼道子(『苦界浄土』)と美智子皇后の交流に言及することは避けてはならないのではないかと思います。

水俣における菩薩の「授記」

2013年10月に実現した、天皇皇后と水俣病患者たちとの会見と対話は、鶴見和子を偲ぶ会で皇后と隣り合わせた石牟礼道子が、皇后宛に送った手紙がきっかけとなったものでした。その経緯は、高山文彦『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子講談社で詳しく検証されています。(ただし、高山さんの本では「美智子皇后と鶴見〔和子〕のつながりはどのようなことかわからないが」とあっさり流していて、ズッコケました。そこ、大事なとこと違うんかい!)

ふたり 皇后美智子と石牟礼道子

ふたり 皇后美智子と石牟礼道子

 

水俣病患者資料館語り部の会会長である緒方正実さんの講話に耳を傾けた天皇は、緒方さんの顔をじっと見て、このように自ら言葉を発しました。

「ほんとうにお気持ち、察するに余りあると思っています。やはり真実に生きるということができる社会を、みんなでつくっていきたいものだとあらためて思いました。ほんとうにさまざまな思いをこめて、この年まで過ごしていらしたということに深く思いを致しています。今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。みながその方向に向かって進んでいけることを願っています」

news.kodansha.co.jp

天皇の言葉に出てくる「真実に生きる」とは、緒方正実さんの講話の内容を受けたものですが、これはもう般若波羅蜜の宣言ではありませんか!*1

島田裕巳さんの仰るように、天皇が「菩薩行」を志向しているのだとするならば、天皇がそれをはっきり自覚したのは、この水俣への旅だったのではないかと思うのです。菩薩として生きる決意を固めた天皇と皇后の面前にいたのは、大乗仏教の言葉を使うならば「代受苦の菩薩」とも言うべき人々だったのではないでしょうか?

教理学的にはあり得ないことなので、あえて文学的表現として言いますが、天皇に菩薩としての授記を与えたのは、人間の尊厳をかかげ闘い続けた彼ら「代受苦の菩薩たち」だったのです。

いまの天皇の父である昭和天皇の戦争責任、水俣病の惨禍を引き起こした公害企業チッソと皇室との深い人的関係などを思うならば、天皇と皇后の「菩薩行」が雲上から民衆に慈悲や救いの手を差し伸べる「衆生救済」という姿勢で実践できるものであり得ないのは明白でしょう。

ですから、象徴天皇の「菩薩行」とは、市井に生きる「代受苦の菩薩たち」への礼拝行(菩薩が菩薩を礼拝する)に他ならないのではないか、と調子に乗って拡大解釈したくなるのです。

◆妄想ヤバイ!

( ゚д゚)ハッ! ……あんまり妄想を拡げすぎると最近の柄谷行人みたいなあれな感じになるので、もう止めましょうね。自らを語ることを極端に制限された天皇について、あれこれ願望や妄想を投影するのは、なかなか罪深く危険なことです。

いずれにせよ、本書の大雑把な問題提起を呼び水として、近現代の天皇や皇室と仏教の関係を解明する研究者が現われることに期待したいと思います。というわけで、島田裕巳天皇は今でも仏教である』サンガ新書、大いに思考(妄想)が触発される新書本でした。読んで、それぞれ考えてみましょう。

 

追記:本書でも参考文献に挙げられていたと思うけど、『史淵』149号に載っている山口輝臣『天皇家の宗教を考える : 明治・大正・昭和』(pp. 21-47, 2012-03-09. 九州大学大学院人文科学研究院)は、近代化以降の皇室と仏教の関係を知る上で必読ですね。九州大学附属図書館HPからPDFを読めます。

天皇家の宗教を考える : 明治・大正・昭和 | 九大コレクション | 九州大学附属図書館

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

*1:もちろんパーリ仏教の十波羅蜜における真諦波羅蜜 Sacca pāramī のほうが相応しいと思いますけど、知名度が……