中島岳志『親鸞と日本主義』がすごい!

中島岳志親鸞と日本主義』新潮選書
親鸞と日本主義 (新潮選書)

親鸞と日本主義 (新潮選書)

 

読了。これはすごい本だと思う。

仏教超国家主義の関係はもっぱら日蓮主義の系譜が問われてきたが、大学や論壇に苛烈な「思想戦」を仕掛け恐れられたのは浄土真宗の開祖、親鸞の教えに立脚した三井甲之や蓑田胸喜といった右翼知識人グループ(原理日本社)だった。序章「信仰と愛国の狭間で」と、1章 「『原理日本』という悪夢」では、中島本人がそれを知った時の衝撃を追体験できる。
3章「転向・回心・教誨」では、官憲に協力して共産主義者を次々と「転向」させた教誨師(真宗僧侶で構成)の活動に触れる。自分も外来宗教なのに、キリスト教共産主義など外来思想への防波堤を自認し、日本主義の権化となった仏教、とりわけ浄土教の魅力とはなんだったのだろうか?
5章「戦争と念仏――真宗大谷派の戦時教学」に引用される禍々しい教義に触れると、人間の……というより真宗の「宿業」の深さを感じてしまうな。浄土真宗という宗教運動の業の深さに、日本国そのものが呑み込まれてしまったかのようにさえ思える。(勿論、実際はそんな単純な話ではないが。)
戦後、真宗大谷派の宗務総長に収まった暁烏敏曰く、
夜は明けてをります。世は慈悲に満ちてをります。かういふ貴い世界に住んでをつて、何をごてごて云うてをりますか。何をいざこざ嘆いてをりますか。汝の高ぶりに気附け。汝の無自覚を恥ぢよ。そして偉大なる皇国の前に跪け。
天照大神様の御力の前に跪くこと以上に、まだえらい阿弥陀様といふものをかざつておるなら、そんなものは外国にいくがよい。
ヒトラー礼賛やホロコースト否定で国際的な非難を浴びている高須克弥さん(真宗大谷派僧侶)もビックリの発言だが、敗戦後に捨てられた戦時教学とは、かくも非仏教的なシロモノだった。
そんでもって大東亜戦争の惨敗で戦時教学が破綻した後、それを喧伝していた真宗人たちは自らの宗教活動の業深さを「人間一般の業深さ」にすり替えて、一億総懺悔で過去をリセットしちゃうのである。なんちゅうか、いろんな意味でついていけない。^^;
やはり親鸞に傾倒し文芸を通じた日本主義の啓蒙に従事した吉川英治(4章で詳述)が敗戦後「もう一行も書けない」と悲嘆した(実際は書き続けたんだが)ような、あるいは蓑田胸喜が自殺したような、わかりやすい凡夫の神経とは異質な、底なしの闇が、真宗人(末端信徒ではなくプロの人々)の精神性を支えているようにも思えるのである。
自己の言説を自ら裏切り続けることで、自らの宗教的境地が深まるかのような不思議な構造。しかし彼ら真宗人(プロ仏教者)は独りごちていたわけではなく、天皇陛下万歳と南無阿弥陀仏を同化させ、更に天皇の他に阿弥陀仏を立てる者は日本から去れ!と叫び、それが浄土真宗の極意だと喧伝した当事者だ。
一向一揆の昔から、彼らプロの真宗人たちは、末端の門徒を戦争に動員してきた側の存在だ。しかし彼らは末端の門徒たちに対して発言の責任を持たないし、感じない(彼らは生前、門徒への説明責任は一切果たさなかった)。阿弥陀仏の本願の前に極悪極愚なる自己を確認して「救済の確信」を深めるだけだ。
僕はその構造に戦慄するほどおぞましきものを感じるし、知識階層の「宿業」というものがあるとするならば、それを体現するのは彼ら真宗人であろうと思う。果たして阿弥陀如来は彼らを進んで済度の対象とするだろうか?
ここで僕は、大乗仏教の成り立ちにまで遡るある「暗さ」を思わざるを得ないのだ。
大乗仏教は自己の覚悟を措いてでも「衆生の救済」を果たすべきことを説く。しかし彼らを突き動かした心的衝動(サンカーラー)の正体は、自己の覚悟を放棄して他者救済を叫ぶことによって得られる「自己の救済」への渇望ではなかったのか? 大乗仏教の極致といえる浄土真宗の戦時教学において、 その心的衝動は剥き出しの形で露呈したのではなかろうか?
別に便乗して何かを述べたかったわけではなく、ずっと以前から感じていたモヤモヤが『親鸞と日本主義』を媒介にして初めて像を結んだように思う。
勿論、大乗仏教の一般的教理と、近代真宗教学という形でブースターをかまされた親鸞思想の間に遠大な距離があると承知している。もう少ししっかりしてした理路を探る思いつきに過ぎない。それでも、「万人の救い」を説く者の心裏に息づく「たった一人の救済」への渇望を彼らに嗅ぎ取ってしまったのだ。
終章「国体と他力――なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか」で語られる、
多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀如来の「他力」を天皇の「大御心」に読み替えることで国体論を受容して行った背景には、浄土教の構造が国学を介して国体論へと継承されたという思想手構造の問題があった。(p282)
という一文は、本書のハイライトだろう。
この分析自体は阿満利麿の論考を踏まえているが、近代真宗教学を確立した俊英たちが(時局の圧力はあったにせよ)権力構造に完全に従属し、阿弥陀如来への信仰までを振り捨てて天皇制国家への同化解消を遂げた奇怪さおぞましさ不条理さを一定程度「わかりやすく」してくれる。
中島岳志親鸞と日本主義』新潮選書、仏教クラスタのみならず、ひろく人文書読みにおススメしたい刺激的な一冊だ。「仏教ブームと右傾化が同時的に進行する現代」(序章,p28)と中島は記すが、実は前世紀の昭和初期も「仏教ブームと右傾化が同時的に進行する」時代だった。
テーラワーダ仏教の日本伝道を通じて、十数年来その「仏教ブーム」に竿さしてきた僕は、「仏教ブームと右傾化が同時的に進行」した昭和初期の状況と現代を常に対照しつつ、過去の再現に抗うべく自分の振る舞い方を選んできた。中島岳志も似通った問題意識を持っているとを知れたのは本書の収穫だった。
 
………以下余談だけど、
"親鸞は「自分は真理を知っている」「自分は正しい」と言う人にめっぽう厳しく、「自分は真理を把握することなんてできない」「何が正しいかわからない」と悩み苦しむ人に、とびっきりやさしい。「自分だってよくわからばい」とささやき、庶民の素朴な嘆きに寄り添ってくれる。"p228
こういう親鸞像って、「何が正しいかわからない」という態度で知的誠実さを装い、差別と被差別、被害者と加害者、ファクトとフェイク、権力の非対称性など、明確に分別して論ずべき問題まで相対化し、どっちもどっちと冷笑するネット民とも非常に相性いいんだよね。現代の「本願ぼこり」と称すべきか。
 
そういうトラップを突破しながら、前に進まなくてはいけないと、僕は思っています。