「ひとが病に罹って苦しんで死ぬ」ということをどう受け止めればいいのでしょうか?(スマナサーラ長老の法話より)

冥想会での質疑応答メモ 2011年11月27日名古屋・崇覚寺にて

アルボムッレ・スマナサーラ長老

Q :「ひとが病に罹って苦しんで死ぬ」ということをどう受け止めればいいのでしょうか?

A :長い間一緒に住んでいるとお互い人間同士の愛着が生まれるんです。(他者の死に悩むというのは)感情の問題です。親しい人が亡くなるとショックですが、嫌いな人は死んでも当然と思うんです。気にしません。理性に基づいてみると、親しい人が多いと危ないんです。たくさんショックを受けなくてはいけないんです。苦しみが生まれるんです。あらゆる精神的な苦しみは親しい人から生まれます。嫌な人なら無視すればいいが、親しい人は無視できないんです。たとえ勘当した子供のことでも悩みます。相手が好きであればあるほど苦しみの量が増えるんです。これは生きる事のジレンマです。 

そのような現実を理解して欲しいんです。われわれは皆と仲良くベタベタ生きていたいんですけど、その分、大変な苦しみも負ってしまう。その一つが「死に別れ」です。でも、それは苦しみの中のたった一つだけです。命は尊いとか言っても意味がありません。ただ生きているだけです。それに加えて感情の激流に飛び込んでしまう。問題を作るのはその感情なんです。

病気になって苦しんで死ぬというのも、肉体のことです。病気にならなくても、ずっと苦しんで生きています。肉体的な苦しみはそんなに気にする事ではないんです。子供が病気で苦しんで死んだとしても、生きている大人は、これまでその子と比較にならないほど苦しみを感じてきたはずです。死ぬ事も死ぬ本人にとってはどうってことないと思いますよ。ただあっさり死ぬだけのことで。もし死後に周りの様子が分かったら、「なぜそんなに悩んでいるのか?」と不思議に思うでしょう。

しかし死ぬ人も感情の激しい人だったら、死ぬことは大変苦しくなります。別れなくてはいけないんだから。わかれたくない、捨てたくない、皆のこと好きだ、と思っても何もできないんです。それが耐えられない苦しみになります。我々に必要なのは、生きる意味は何かと悩む事ではなく、他者とつくる感情的な関係が苦しみをつくる原因であると理解することです。感情の流れに流されないようにと心を育てなくてはいけないんです。

人の死をどう捉えるべきか、答えるのは難しいんです。(感情が問題の元凶なのに、)皆、感情で捉えているんですから。人は必ず死にますよ、そんなの当たり前だ、という人に、「じゃあ、あなたの息子が死んだらどうする?」と聞いたら態度が変わるんです。絶交されるかもしれません。人は死ぬと言いつつ、自分の親しい人には死んで欲しくないんです。

死んでいく人について悩む自分はとんでもない阿呆だということです。親しい人の死を冷静に見守っていられる人は、強靭な精神の持ち主なんです。冷静でいることを仏教で推薦します。冷静にいるためには、感情に打ち勝たなくてはいけないんです。あと一日でも生きて欲しいと願っても、一日生きて何になるんでしょうか?

人が死ぬことは決して楽しいことであってはならないし、決して悲しいことでもあってはならないんです。悲しいというのは余りにも執着があるんです。自然法則をなぜ認めないのでしょうか。自然法則は悲しみの原因にも喜びの原因にもなりません。風が吹いたら楽しいといったらヤバイ。なぜなら風はいつも穏やかに吹くわけではないからです。竜巻もあれば嵐もあります。自然現象は冷静に見ておくべきです。しかし雨風よりも確実なのは「人が死ぬ」ことです。何の目的もないんです。そういうふうにできている体だから。細胞が死ぬのは当たり前です。死なない細胞があったら大変なことになります。身体が石のように固まってしまう。生きるためには細胞が死んでくれないといけないんです。細胞の死によって、我々の生が成り立っているんです。だったら我々が死ぬのも当たり前だよ、ということです。

太鼓を一回ドーンと叩くと皆びっくりしますが、立て続けにリズミカルに叩くと演奏だと思って耳を傾けるでしょう。死も同じです。身内が一人死ぬと大騒ぎですが、アメリカが対テロ戦争と称して無人機で人々を殺しまくることには何も感じないんです。数を数えて「あまり効果がなかった」とか評論したりする。そういうおかしい思考で生きていますからね。一日たりとも人の死のNEWSがない日はない。死は自然の流れで、自分に関係する人の死だけ悲しいんです。親しい人の死は生きる苦しみのたった一つだけ。苦しみが我々に凡ゆる行為をしています。立つ事も座ることも呼吸さえも苦がさせています。仏教では「苦」という一語ですべてを捉えているんです。

なぜヘッドフォンで音楽聴きながらジョギングするのでしょうか? 走っている時間が退屈でたまらないからです。それを紛らわすためにカラクリするんです。いかに苦しみを相手にゲームするのか、というのが「生きる」ということです。しかし、いくら頑張ってもそのうち動けなくなるのです。泳ぎができる人を大海に放り込んだらどうなる? すぐには死にませんよ。しばらく泳いでから、死にます。人生というのは、苦という大海で死ぬまで泳ぐだけのことです。

釈尊の発見された「苦」というアプローチ以外で人生を見ることは、すべてまやかしです。幻想の世界です。人生を科学的・客観的に観察すれば、苦以外には見つからないんです。絶対に疲れない、危険でない、体が壊れない、ツケがない、そんな楽しみは何かありますか? 客観的に観察すれば、一般人にも生きるとは苦だと発見できます。海がありますよ、と発見するのが簡単なのと同じく、「生きることは苦」と発見するのは簡単です。

質問は「苦しみには何か意味がありますか?」ということ。何も意味がないんです。問題は、生きたいけれど苦しみたくない、ということ。それは相当頭がおかしいから、仏教では無知というんです。その無知の治し方を仏教で教えてあげます。それで自分で選ぶんです。それでも生き続けるのか、生きることをやめるのか。冷静に観察すれば99.9%の人は生きることをやめる道を選ぶと思います。

釈尊もそうやって生きることへの「執着」を離れて、輪廻を解脱したんです。死に対して冷静にいることです。日没に驚かないように、死にも驚かないこと。死ぬとは肉体の苦しみが終わることです。しかし生きていきたいという執着を残している限り、また他の肉体を作って輪廻を繰り返してしまう。死んだら何処に行くか分かったものではないんです。

いまの心の状態によって、次の心が出来上がってしまうんです。これがヤバイんです。心のゆらぎは感情で起こります。我々は何時でも感情に気をつけることです。理性で判断して、好き嫌いで判断しない。たまに感情が爆発しますけど、それを即座に制御する訓練をしましょう。そうやって腕をあげて、心を成長させて生きないといけないんです。

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~