安らぎを遠くに求めてはいけない・他(スマナサーラ長老の法話より)

2012/11/26 長崎県川棚町"姿斉[SHISEI]"での交流会にて

アルボムッレ・スマナサーラ長老

Q:何かをするまえに”虫の知らせ”というようなものがあって、失敗してから「そういえばあの時……」と、あとで思い出すことがあります、云々。(判断に関する質問)

A:それは、人間がものすごく気をつけた方がいいところです。人間は何か判断しないと何もできないんです。身体動かない。判断によって人生決まってしまうんです。問題は判断が合っているかどうかです。判断する時、大脳・頭で判断する時はけっこう頭で調べるんです。データ比較してみるとゴチャゴチャ考えてしまう。それで、もういいやと原始脳でドーンと決めてしまう。感情によって決めることになるんです。一般人には生きるということは難しいんです。判断する結論になかなか達しないんです。時間切れで一か八か、原始脳に負けてしまう。大脳で考えれば当たり前という事は全然問題ないんです。冷蔵庫に食材がないから買い物行かなくちゃ、という場合は判断に悩む必要ない。悩む時はどっちにすればいいかさっぱり分からない時です。高校生、大学生、人生の進路をどうしようかと、派手に悩むんです。

その場合は答えは簡単です。ポイントは選んだ道をやり遂げられるか、ゴールまで行けるか、それだけだよと。そう言えますが、日常生活ではゴチャゴチャです。どうすればいいか分からない。瞑想して智慧が現れればそれで終わりですが、人生それまで苦しむことはないんです。緊急処置として釈尊は「慈しみ」を教えています。慈しみで判断すれば判断が間違っていても酷いことにはならないんです。貪瞋痴で判断している時は慈しみがないんです。生命への心配がないんです。そうではなくて、どうしたら皆幸せになるかという風に考える。これなら家族も皆も幸せになる、と思ってやっていると、何となく幸せになるんです。周りもサポート修正してくれるんです。ややこしくて理解が難しいが、やり方は家族や皆の幸せを願うことです。皆の笑顔を願っていると、自分のブランド品はどうでもいいから、家族や皆の笑顔、安らぎ、幸福が私の財産だというふうに考えるんです。それで原始脳がけっこう騙されます。幸せになりたいと思ってるんだからいいんじゃないかなぁと、邪魔をしない。それで原始脳を睡眠状態に追い込むんです。瞑想する場合も、まず原始脳を眠らせる。その間にサーッと理性を育てる。理性が確立するともう原始脳が目を醒まさないんです。

いろいろ失敗したこと思いだして、まずかったなぁ、という事はしょっちゅうあるけど、仏教は後悔は禁止です。失敗するのは毎日のことです。どこまで後悔するかキリがないんです。慈しみでニコニコ穏やかで余計なこと考えないで明るくいることにすれば、原始脳も騙されるし、笑って生活すると大脳がすごく発達します。

質のいいお笑い芸人は頭がいい。(雑談で大竹まことを評価。爆笑問題よりレベル高いと。)いかにくだらない事を言うかと、理性で考えないといけないんです。真面目なことやろうとすると、人を動かすやり方は知っている。言い方を知っている。売れない芸人は自我を出しています。売れたい、人気者になりたい、という自我です。それでは、結果として売れないんです。作品を作りたい、という気持ちで自我を抑えることです。自分を殺さないと芸にならないんです。芸の世界はバカな世界ですけど、かなり大脳が発達するんです。

何を言いたいかというと、冗談をいうためには、笑うためには、けっこう大脳が必要ということです。原始脳では笑えないんです。原始脳にあるのは恐怖感です。恐怖感では笑えないんです。無知の笑いはよくないけど、ネタでも作って人を笑わせようとすると、大脳を使わないと。笑顔を目指して、心の明るさを目指して生活すれば、だいたい失敗はないんです。やめた方が良かったというふうにはならないんです。

 

Q:60代後半。失敗もしてきたが、いまはけっこう上手くいっています。これからもうまくいくだろうと思って生きているんですが、周りの人が常に後ろ向いてるんです。後悔や、病気の不安の話しになってしまう。ちょっと失礼、という気分になるんです。対処法をどうしましょう?

A:そんな暗い話はやめて楽しみましょう、と言うしかないです。その時間で楽しめばいい。その時その時の楽しいことをしゃべればいい。年取ると後ろ向きという事はよくあります。若い頃と比較すると惨めになるんです。でも、そこで後ろ向いてはいけない。余計に人生を苦しませる事になるんです。楽しくなると忙しいんです。

 

Q:60代前半の方(質問というより自分語りで整理がつかなかった様子。なかなかものごとを割り切れないという悩み)

A:釈尊の生きるための技、割り切る術があります。割り切らないと生きていられないんです。24時間しかないし、1時間は60分しかない。一分でできることは一つだけ。いまできるのはこれだけ、という風に生きるしかない。それしかないと割り切るしかないんです。一回には一つしかできない人生です。精神的に悩まないで割り切ることです。神社に行った時も、お祓いされても微塵もご利益あると思ってないけれど、しきたりをきちんと守って雰囲気を穏やかにさせること。割り切るのはみんなのため、平和のため、調和のため、皆がなかよくするためです。決して人々を騙すためではないんです。(バス停で宗教勧誘を笑い飛ばした労働者の話 書籍に出てくるエピソード)宗教は原始脳の恐怖感だけ育てるんです。だから信仰者はいとも簡単に人を殺すんです。(イスラム教で)アッラーの意志に反してなに一つも起きないというなら、仏教徒アッラーをクッタクタに馬鹿にするのもアッラーの意志です。割り切るというのは信じることではなく、平和・調和を目指して割り切るんです。「慈しみ」で割り切れば、悩みなく優柔不断なくビシッと生きていけます。でも、何でも割り切っていいわけではありません。断然断ります、ということもあります。動物を生贄にする儀式や、命に危険のある祭(御柱祭とか)、倒れるまで酒を飲む祭など、五戒を犯すことはダメです。

 

Q  生まれ故郷に帰りたいと願っています。大陸から終戦後に引き揚げました。行ったら、もう日本には帰れないだろうけど、生まれ故郷に散骨希望しています。

A 生活したこともない、周りも知らない人たち、そこに行って故郷に帰ったと言えるんでしょうか? 故郷とは親に好き勝手に甘えた時期です。それがホームです。特定の土地ということでもないんです。場所としての故郷は、時の流れで消えてしまいます。私はその場その場をマイホームにする。妄想をマイホームにすることはないんです。知っている人々に囲まれているところをホームにすることです。

安らぎを遠くに求めてはいけないんです。安らぎは自分で自分の足元に築いて欲しい。ここにいる皆さんも仲間でしょう。大事な寿命の中で二日間、一緒にいたのだから、仲間と言わなかったら、人生に穴ができてしまいます。「安らぎはここにある。遠くにあらず」という生き方にじわじわ変えて欲しいんです。死ぬ時間と死ぬ場所、死に方は本人に分からないものです。いつどこでどう死ぬかは分からない。本拠地とは、仲間がいるところなんです。土地ではなく、人間で決めるんです。

私もどこがホームかというと日本です。生まれた国はスリランカだけど、長く住んでいるのも、本気で仕事したのも、日本だからです。捨てることを覚悟して、捨てられる人間になってください。何の躊躇もなくすべてを捨てられる人が覚った人です。「放っておく」というのはそういうこと。執着しない。いまここの自分の足元を見る。いまOKならそれでOKです。人の道は捨てる道なんです。仏教は捨てて、捨てて、捨てて行く道。肉体は捨てたら(排泄)、次に何かを拾って(口に入れて)、維持する。それが輪廻ということです。私たちはいまも輪廻しています。なに一つ持たずに生まれてきたんです。すべて置いて、捨てて死ななくてはいけない。どうせ捨てるんだから、上手に捨てること。老いていくと、「若さを奪われた」と思ってしまう。そうではなく、無執着で上手に捨てる。そうすると若い人を見ても気持ちがいいんです。……

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執着しないこと

執着しないこと

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~