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人類のゆくえ(スマナサーラ長老の法話より)

ひじる日々 スマナサーラ長老 法話メモ

2012年10月27日(土)午前
スマナサーラ長老 幡ヶ谷・ゴータミー精舎 法話と実践会
※以下、講義中のメモから構成しました。

 

Q:これまで、競争こそが人間を成長させる道だと思っていました。先生の著作に、人間社会が、人類が共存から競争へと変わった途端に人間破滅の幕が開いてしまったと。仏教はその破滅を一日でも先送りするために頑張っている、とありました。お釈迦様は人類の行き先をどう語っているか。自分は競争、競争の生き方を変えていきたいと考えています。

 

釈尊は人間社会を心配していた

A:お釈迦様の過去世=ジャータカ物語を読むと、お釈迦様がずっと人間社会を心配していたと読み取れるのです。釈尊が悟る前の認識は、「生きることは苦しいことで大変である。しかし苦しみを忘れて、悩みを押さえて、幸福になろうとしている。誰もそうなっていないのではないか?」というものでした。これはお釈迦様を含めて、という意味です。人々は、幸福になろうとして幸福になれない。ちっぽけな幸福のために多大な苦労をしないといけない。

生まれることからトラブルです 

生きるとは、どう頑張ってもあらゆる現象が生まれてくる。「生まれる」ということがトラブルです。子供が生まれたら楽しみはわずか。大変な苦しみが待ち構えている。責任感とか。誰でも人間なら、子供かわいいし、見たらニコッと笑ってしまうけど、責任感ってどれほど大変か。子供のためにどれほど悩んでいるか、苦しんでいるか、失望感に落ち込むか。それでも親は頑張り続ける。自分に暗示をかけながら、踏ん張って頑張っている。それでも大変。

「これから楽」にはなりません 

あらゆる現象が起こる。子供が生まれたとか、結婚したとか、幸福だという現象があるんだけど、結婚にたどり着いて幸せだ、おめでとうございます。本当ですか?結婚した途端大変な苦労が待ち構えている。これから楽です、という世界は生まれませんよ。地方議員になって、国会議員になって、総理大臣。最高の地位に達しましたね。楽?日本人一幸福でしょう。人間トップの地位。喜ぶべき。違いますね。そこから地獄待っている。釈尊は分かりやすく「生まれることは苦である。生は苦である」。津波も生なんです、生まれること。生まれたら死ぬまで生きて行かないといけない。逃げられない。子供を世界一幸せにしたいと思うのは親だけ。生まれたものが頑張らないといけない。

わたしたちは日々、老いていく 

それから、老いること。結婚は楽しいんだけど、その気持ちは日々、老いていくんです。これはどうにもならないこと。私たちは日々、老いていく。だから将来は怖い。明るい未来というのはとんでもないうそ。誰にも明るい未来が待ち構えているわけではない。日々、老いて、老いて、苦しみが増えていく。老いることは苦である。老は苦である。どうしようもない真理。

病気からは逃げられない 

病気になること。病院にかかるような病気にならずに80歳まで生きることはできる。しかし、病気からは逃げられません。仏教の定義では、身体そのものが病によって成り立つ。生きるということは、壊れていく身体を修復すること。病が生きること。病こそが生きることなんです。みな観察能力がないから、医者のところに行く時だけ病気だという。本当はいつでも調子が悪い。それを修復している。呼吸も病気なんです。呼吸は修復作業です。やめたら、たちまち死にます。御飯食べること、用をたすこと、やめたら死にます。世間は観察能力が乏しいから、おいしいご飯を食べて生きていて良かったというでしょう。私は怖気がたちます。なんと無知な人々でしょうかと。何か食っただけで、日本人に生まれてよかったと。そこまで感動するほど苦労したのかいと。人生でろくなものを食べていない。だから、あの感動なんです。

苦しみを誤魔化して生きている 

我々は生きることは苦しみだから、誤魔化すんです。家族団らんは幸せですとか、化粧して作品作って世間だましたら幸せですとか。心のなかでごまかししているんです。化粧に騙される男も馬鹿で、騙している女もバカで、お互いごまかし遭っている。それでゴマ櫂アイで、ああ幸せだというのは、本当の幸せですかね。そういうことに人間は必死なんです。10階建てのデパートがあったら、8階までは女性服。そこまでごまかしている。騙し騙され。なぜか。そこまでしないと人生は生きていられない。そのくらい大変なことなんです。騙しがないとどうにもならない。音楽がなければ、映画ドラマがなければ、現代ではゲームがなければ、生きられませんよ。苦しいんです。ですから、ゲームをやる人は自分を騙しているんです、ああ楽しいと。病イコール命です、病とは生きることなんです。血液がさらさら流れないと死んでしまう。流れるためにはあれこれしないと。命は病で成り立っている。やばいもの。ちょっと油断すると死んでしまいます。

生老病死の問題をどう解決するのか? 

でも必ず死ぬ。死なない人はいません。釈尊は、この「生・老・病・死」に人生を見事にまとめてみたんです。そこで、あわれみという、心配の気持ちが生まれたんですね。これは汝らを憐れむぞという偉そうな気持ちではない。そうではなく、「生きとし生けるもの」が苦しんでいるんだと。「生きとし生けるもの」には、お釈迦様自身も入っています。汝ではなく、生きとし生けるものを心配する。そこで生老病死をどうするか? 釈尊は、家を捨てて出家して、八正道を発見して覚ったんです。生老病死を解脱したんです。それから、解脱に達する方法を誰にも隠すことなく教えてあげたのです。これは一般的な思考とはかなり違う立場。ただ慈しみがあるだけで、主語はないんです。心配する。それだけ。主語はないんです。「我は」はない。これはけっこう理解難しいと思います。

認識過程に問題がある 

それからお釈迦様は原因を探すんですよ。なぜ命が病になったのか。生まれること自体がそうとう怖いものになったのかと。認識する過程で問題があるのです。認識する過程、プロセスに何か問題がある。われわれは騙し騙されの世界を喜んでいる。本当ならばデパートに行ったら腹をたてて出ていくべきでしょう。歌の世界というのも嘘ばかり。十五六歳の女の子たちが偉そうに恋の歌、別れの歌を歌ってもいい加減にしろと。まだ男の子の友達もいないでしょうに。あれも訓練させて、だましの世界のプロになる。それで人々は喜んで騙される。そういうことを見ても、我々の認識過程には何か問題がある。つねに騙し、現実をごまかしということを発見する。

執着を捨てれば問題は消える

そこで、生きることへの執着を捨てたところで、問題が消える。病気になって慌てるのも、執着があるから。子供が死んでものすごく悲しいのも、執着なんです。私の子供ではなく、人間である。生まれたものは必ず死にますよ、と思っちゃえばその執着は綺麗に消えます。金が無くなったらすごい苦しいでしょう。それも執着。執着さえなければ、ものすごく穏やかな心でいられます。それは目の前で経験できます。死後も、この恐ろしい「存在」というものを作らないんです。

「我はいる」という心の汚れ 

心のトラブルについて釈尊は様々な例を出して語る。心のトラブル惹き起こすものは煩悩という。原文は「汚れ」です。心の汚れ。リストアップして、これこれを捨てなさいと。それだけだと。リストはその都度いろいろありますけど、すべてまとめると三つなんです。貪瞋痴。生命は騙しの世界にいるんだから、真理の世界に生活しない。嘘の世界、幻覚の世界に生きている。一つの心の汚れというのは「自我」ですね。「我はいる」という考え。これは幻覚なんです。あなたが我という場合は何を指していますかと。大雑把で中途半端で明確な定義もなく、単語を使っていますね。「私は」「我は」しかし単語生まれたということは何かを指しているはずなんです。それは何かと調べなさいよと。すると、それは幻覚だったと発見する。それだけで煩悩が終わります。

病気の心がつくる宗教の世界 

解脱に達する方法はいろいろありますが、ひとつは、「我とは何か?」と調べてみることです。すると我とは成り立たない、大雑把で非論理的に使われてきた単語に過ぎないと分かるのです。「我」とは、ただの一般人が作った単語です。それにおかしいのは、知識人たちが「これこそが我である」と大まじめに論じること。知識人の幻覚は、皆さん一般人の幻覚よりも、とんでもない幻覚なんです。私の魂は、私の霊魂は、とかいうと治らない幻覚です。詐欺師のマインドコントロールです。詐欺師が自分の商売のためにつくったマインドコントロール以外の何ものでもない。権力欲支配欲など病気の心で作られた宗教の世界なんです。

どうして私は生きているのか? 

そこで、競争について話します。健康になりたい、と思うのは健康でない人々。痩せたいと思うのは痩せていない人。生きていきたいと思うならば、生きるとはどうやって成り立っているのか、それを無視したら結果を得られない。痩せたい人が、なぜ体重増えるのかと調べないとダメでしょう。それはどうでもいい、私は痩せたいだけ、と思ったら痩せるわけがない。同じく生きていきたいと思うならば、どうやって私は生きているのかと調べなくてはいけない。調べていない。

共存しているからこそ私は生きている 

そこの答えは、「他の生命がいなければ、自分は生きていられない」です。たちまち死にます。砂漠では生きていられませんよ。他の生命がいて、生きているんです。この身体のなかで、細胞の数よりもはるかに、数えられないくらいの他の生命が生きているんです。これらの生命の排泄物で、自分の身体が成り立っていますよ。腸内細菌の排泄物をビタミンだのなんだの言って、元気に生きている。皮膚がこれだけ厳しい環境で元気なのは、皮膚の上にたくさん菌がいきている。なのに日本社会はいつでも抗菌抗菌。それで金をはらって身体にあれこれ塗りたくっている。自然の中で生きている人々は年取っても身体がつやつやしてますよ。あれは抗菌ではないんだから。

共存に気づかない無知 

私たちは他の生命がいないと生きていられないということを知らない。他の生命に対して一欠片も親切ではない。ある日、子供を連れて品川水族館に行きました。中学生がたくさんいてうるさかったのです。水族館では生命の生き方を学ぶところでしょうに。それなのに彼らは、カニを見ても「これが美味しい」と。同じ生命だという気持ちがまったくない。獣とおなじです。しかし、獣は腹が減った時に食べるだけ。空腹でないライオンの前をガゼルが通っても、相手にしません。獣だってそうなのに、水族館に遊びに行って、生命が食い物にしか見えないというのはどういうことか。

生きる歓びを感じるために 

我々はエゴイストになって、他の生命に残酷な態度を取る。他の生命に残酷な態度を取ると、自分は生きていられないんです。ただでさえ生きることは苦しいのに、エゴイストで残酷な生き方をする人は恐ろしい生き方をその上に味わってしまうのです。ですから穏やかで、安全で、気持よく、明るく生きたければ、生命に対して慈しみを育てなさいよと、慈しみを教えるんです。それが法則だよと。他の生命がいないとあなたは生きていられないでしょうと。他の生命に慈しみを感じなさいと。それでたちまちあなたは安らぎを感じますよ、生きる歓びを感じますよと。

競争は根深い問題 

競争というのは、根が深い問題です。日本の社会は競争社会といっても、その問題はもっと根深いんです。たとえば水の中で生きている生命というのは、あらゆる他の生命に食われますね。他の魚、鳥、いちばん恐ろしいのは人間ですね。大量に捕る。みなさまがたは、例えばタイという魚を食べたくなる。タイ一匹が、どうぞ私を食べてください、と出てきますか?生命は食べられたくない。そこで競争が始まるんです。人間はあれこれ工夫して、魚を取ろうとする。競争に負けた時点で、命までなくなってしまう。我々が生きているということは、強者であること、残酷な生き方をしているということ。

人間という凶暴な生命 

人間はあらゆる生命のなかでもっとも凶暴です。自分が生きていたいがために地球まで破壊するんです。競争というのは根深い、根本的なところ。森に入ったら、クマに出会うと、そこで、競争が始まる。お互い怖いんだから。クマは人間を見ると恐ろしくていてもたってもいられなくなる。自分のいのちを守るために攻撃しないといけない。どちらが勝つかというと強者が勝つ。人間が手ぶらだったらクマが勝つ。猟銃でももっていたら、クマが死にます。それでわれわれ人間が、人間の社会を作る。一人ひとりが、自分が生きていたいために社会を作る。自我、エゴイスト。自分が生きていきたいためにあらゆるシステムを作る。人間には教育というものがある。教育のなかで、我は生きていくために、あんたはどうでもいいや、という気持ちでやっているから、競争が出てきます。ただ必要なことを学べばいいのに、敵と味方に分かれて競争するのです。それで、教育はとことん苦しい世界になっている。商品の交換が経済で、別に大したことはない。経済学という大げさな学問にするほどのものではない。しかしこれが、我々に耐え難い競争になっている。

人類が破滅に向かう理由 

結果として、他の生命を攻撃すると自分には生きていけない状況になる。私たちは、幸福に生きたい、楽しく生きていきたいと思うんだけど、方法を知らないのです。競争すると幸福になるのかと。なれません。民主党が政権を取ってすぐに、自民党が徹底攻撃。仕事させない。それで良い国ができますかね? 国民のためになりませんよ。この世の中で何ひとつもうまく言っていないんです。あらゆる組織が無数にありますけど、すべて競争という原理に変わっていまう。なぜ人類が破滅に向かってまっしぐらで走っているか。これ、競争のためでしょう。一つの国が経済的に豊かになると、他の国がガタガタに壊れてしまう。中国が世界一の経済大国になったら、どうなるかわからない。これまではアメリカが世界一の経済大国で、世界中に迷惑をかけまくっていた。

競争原理で不幸になる 

人が経済的に豊かになるのはいっこうにかまわないが、競争の原理で成り立っているから、大勢の人々を不幸に落としているんです。100人を踏みつけて、自分が美味しいご馳走を贅沢に食べている。それに万々歳素晴らしいことというべき?

競争ではなく共存が繁栄を呼ぶ 

そこでお釈迦様が、競争ではないんだと。生きていきたければ共存だよと。生かして生きる。生命を生かしてあげると、生命も自分を生かしてくれます。レストランでも、先に自分が客に、喜び・充実感・安らぎを与えるならば、自動的に繁栄するんです。これ実行が難しくなっているのは、人類が全体的に競争になっていて、根深い問題だから。鶏を食いたいけど、鶏は食われるために生まれていない。だから鶏の自由を奪って、身体を動かせないようにして、機械で餌をあげて、そこにいろんな成長ホルモンなどを入れて、毒にして、殺して皆さんに売っているんです。自分さえよければいいという恐ろしい世界が広がっているんです。

赤ちゃんさえ、先に与えている 

慈しみで生きていると、まるっきり想像できない社会が成り立つんです。私がGive & take という言葉を少し、give & receive と言っているのです。先にgiveなんです。先に何かしなさいと。赤ちゃんだって、先にお母さんを見て笑うんです。それで母親は喜んでおっぱいをあげる。赤ちゃんがまるっきり笑わないで恐ろしく泣き叫ぶだけだと、親も育児ストレスが溜まって子供を捨ててしまいますよ。赤ちゃんが先にニコッと笑うと、問題が起きない。児童虐待をやっているお母さんもやりたくてやっているわけではない。どうにもならなくてやっている。(赤ちゃんもお母さんも)どちらもエゴイストですからね。

貪瞋痴の心にあう教えが拡がる 

ブッダの教えが世界に広がればまったく問題ないんですけど、世界に広まっているのはイスラム教の教えですからね……。キリスト教ならまだ「汝の隣人を愛しなさい」くらいの教えはありますけど、彼らには、それすらない。それでも広まっているのは、貪瞋痴で成り立っている私たちの心に合っているからなんです。

正しい教えは個人で実行するもの 

ブッダが教える正しい教えは個人でやらないといけない。競争の世界で私は競争なしに穏やかに生きる。怒りに狂っているこの世の中で私は怒りなく生きますと。憎しみ争いの世の中で私は私は……、競争の世の中で私は共存の気持ちで穏やかに生きています、と自分で先延ばしにしても、どうにもならない。存在というのは維持しようとしても壊れるもの。人類がいくら頑張って生きていても、自然の条件が変われば、消えてしまいます。しかし我々は頑張れば目の前で破壊が起こることは先延ばしに出来ます。とはいえ、これは個人で実行するしかないんです。自分は怒りに狂った世の中で怒らないようにしますよ、とすれば、周りの人々もそれを学ぶんです。

自分がまず何を与えるのか? 

夫婦関係でも、自分がしてもらうことばかり考える。それでハチャメチャになる。結婚したら、自分が相手に何をしてあげればいいのかと考えれば、仲良く年取れます。「自分がまず何を与えるのか?」という生き方をすることで、幸福に生きられるのです。

 

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~