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嫌いな人々の願い事が叶ってもいいのか/誰でも覚れるブッダの教え(スマナサーラ長老の法話より)

Q:慈悲の冥想に関して、私の嫌いな人々のところでひっかかる。嫌いな人々の願い事が叶えられますように、というと悪い奴らの願い事が叶ってもいいのかと……

A:もっと冥想続けると、生命をみる見方が変わってくると思います。そこで疑問が消えると思います。願い事が、というのはすべての生命が幸福に生きていきたいと思っている、その願いです。道を間違っているのはその生命の間違いであって、虫だろうが人間だろうが、幸せに生きていきたいと願っているのです。それが叶って欲しいのです。でないと死んでしまう。悪いことをしてしあわせになろうとしているのは勘違い。「こいつは嫌なやつだけど……」という気持ちで、「(この人の)願いごとが叶いますように」と念じるのは、この人が幸せの道を歩んでほしいということ。殺人計画をしている他人に「願い事が叶えられますように」と願うことは、「殺人が成功しますように」という意味ではない。その人は、殺人を犯すところまで苦しんでいるんです。その人が幸福の道を歩んでくれますようにと、慈悲の気持ちで観ると、嫌いな人も可愛いと思えてしまうし、心配する気持ちも生まれるのです。

殺人をしたいひとにとっての願いごとは、他人を殺すことではないんです。生命が本来願うべきことが叶えられますように。どうしても気になるならば、「嫌いな人々も、本来願うべきことが叶えられますように」と変えてもいいんです。でも慈悲の冥想は完璧な冥想だから、そのままやっても何の問題も起きません。生命が本来願うべきことというのは、たとえば、お腹が空いたらご飯を期待する。人間はただではご飯得られません。それは得て欲しいと。住む処、薬、着物など……生命が生きるために必要なものが得られますようにと。悪人はそれを得たくて、間違った道を歩んでいるのです。幼稚園の男の子が、友達にしたい女の子をいじめてしまうようなもの。正しい方法がわからないんです。人間は時々、目的に達しようとして、それと反対の行動をしてしまうんです。

生命が生きていくためには、基本的な願いごとが叶えられなくてはいけない。お腹が空いてご飯がなかったら、たいへんなことです。病気で倒れたのに治療を受けられないのは大変なこと。どんな生命でも、その基本的なことは揃って欲しい。そうやって大きなスケールで、「生命の願いごとが叶えられますように」と念じるべきなんです。

 

Q:「穏やかな気持ちで生きたい」と思っている。なぜか周りに宗教関係の友達が多い。「杯にうつった月」ではなくて、「本物の月」を観たいと思った。そこで初期仏教にであったが、本を閉じると実行できないジレンマ。心の安らぎを得るにはどうしたらいいか。出家しないといけないのか?

A:お釈迦さまはどちらかというと科学者、生命の科学者なんです。完全なる。釈尊は生命という尺度で見ている。(例:ヴァーセッタ経 人間は平等。ホモサピエンスの一種類)。人間の場合は行為だよと。人のものを盗む人は盗人であって、バラモンではない。煩悩なくなったら聖者だよと。男とか女とか出家とか在家とか関係ない。瞑想する人は人間であればOKなんです。でないと仏教は科学的にならない。私は年寄りだから、とかあり得ない。子供でもできますから。これは人間に語っている。医学の薬、日本人だけに効く、ということはあり得ない。人間なら誰にでも効く。ブッダの冥想も同じ。実践すれば成功するに決まっている。本人のやる気次第。やる気はおのおのの問題。出家とか形を取ったからといって何の特権もない。形を誇るのは科学ではない。ブッダは科学者がものごとも観るように、「あなたは人間だろう」という教えです。瞑想は厳しい世界。しかし車の運転は本で学ぶんでしょうか? 教習所で怒られながら学ぶしかない。泳ぎたければ泳ぎのプロから学ぶしかない。

欲をなくそう、怒りなくそう、渇愛なくそう、とか成り立たない。そこはプログラムがあります。思考妄想をなくす。精密なことは理解能力それほどないから、教えられない。悟った人は原始脳に負けないから、がんこ。アリ一匹でも殺せない。だったら私を殺して下さいと。それくらい頑固に道徳的な人間になる。心の回転を帰る。ちょっと無理をしないと成り立たない。

脳で説明する場合でも、成長には順番がある。こころの成長にも順番がある。それは当然のこと。怒りだけ無くしたいとか、欲だけ置いておきたいとか成り立たない。順番がある。まず、自我、私がいるんだ、という実感にヒビを入れないと。そこからさらに瞑想して、感情が無くなっていく。自我を破ることは自分で踏ん張ってやらないといけない。自我は脳がつくる錯覚。生存欲を維持するために必要な錯覚。釈尊がおっしゃっているのは、その錯覚を破るプログラムです。智慧が現れれば、あとは自然に煩悩が消えていきます。ぶつかってくる人は早い。

修行できない「いいわけ」も、渇愛がつくるんです。悟れるんだ、幸福になれるんだという希望だけは捨ててはいけない。できないはずはないんだと。(長老、スリランカで瞑想道場にこもっている僧侶から訊かれた。日本のような環境で何もできないでしょうと。)仏教はパンダやトキみたいな存在になってはいけない。保護された特殊な環境でしか実践できないということはない。ブッダというのはそんなちっぽけ教えですかね?

釈尊初転法輪のあとで、比丘はすべての人間の幸福のために歩けと命じられたのです。それがどうして「道場に篭れ」ということになるのかと。(例:プンナさんへの教え。仏教の伝道者への心構え。なんの執着も持たない自分は布教に行った先で殺されたとしても幸せだと……)

あれだからできない、これだからできない、というのは言い訳なんです。世の中にはそういうものもあります。アメリカ行ったほうが英語は身につきますが、科学はそうではない。生命科学はそうではない。自分が生きているんだから、それで充分です。

誰でも覚れるというのは、ブッダの教えにのっとった答えです。覚れない人は、実践しない人です。または、自分の迷信・思考にしがみついている人(邪見者)です。自分の固定観念、自分の思考は、ありのままを観察する仏教の修行には大きなハンディです。ですから、いつでも思考をペンディングにしてください。新しいデータが入ったら、自分の思考は改良しますと決めて、最終結論にだけは達しないでください。それで邪見の問題は解決です。それぞれ自分の考えがある。ペンディングにしてください。それで瞑想実践は大丈夫です。瞑想でそれまでの思考はひとつひとつ捨てることになります。あとは、親殺したひととか、ブッダを傷つけるとか、経典で「今生で覚れない」とされているのは、ふつうはあり得ないようなケースだけなのです。

(2012年5月5日 ゴータミー精舎法話と実践会Q&Aメモより)

  ※Facebookのノートにメモしていた文章をブログで順次公開していきます。

不 安 を 鎮 め る ブ ッ ダ の 言 葉
 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~