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渇愛と目標・意欲の関係/ブッダの言葉は脳にパンチを浴びせる(スマナサーラ長老の法話より)

Q:渇愛はよくないというが、人生の目標・意欲は必要ではないかという疑問が起こる。渇愛と目標・意欲の関係について教えていただきたい。

A:これは大切なポイントです。生命は生存欲で生きている。「生きていきたい」と意欲が起こると、そこに恐怖感と怒りが出てくる。生命は認識対象を敵・味方で区別するのです。自分に有効だと思ったら好きになるし、害があると思ったら敵意を抱く。本当に害があるかどうかは分からないが。敵か味方かという見方を捨てれば、蛾や虫もかわいくみえるのです。

何が私たちを生かしているのか? 神ではない。それは渇愛というのです。ブッダは渇愛を三種類に分けています。欲愛、有愛、非有愛です。人間には昆虫と違って、ものごとを考える能力がある。概念をつくってしまう。しかし、大したこと無い能力です。概念がなくても、他の生命はちゃんと判断して生きている。人間は動物と違って、もっとややこしい世界を作る。存在欲を肯定するために、より安心して生きるために、いかに死を避けるために、ありとあらゆる工夫する。薬作ったり、家作ったり、飛行機作ったり。そんなのはシロモノで大したことないと思いますが。だって、津波があっても野生動物は死なないでしょう、人間が死ぬんです。人間が自分を守ろうと築いた文明は、その目的に役立っているか分からないけど。

建物をたてること、会社をつくって経営すること、商品開発すること、勉強すること、それらの中で希望・願望・ああなりたいこうなりたいということが人間社会に出てくるのです。その根本を探したら何なのか? 私は科学者になりたい、画家になりたい、金を儲けて家族を幸せにしたい、表面的にはぜんぜん悪くない。裏を観ると、見えるのは生存欲と恐怖感なんです。だからややこしい。勉強していい職についてまともな人間として行きたいというのは悪いことではないが、生命は全て生存欲の衝動で生きているという厳然たる事実があるのです。

我々は夢を求めて頑張ってもトラブル続きです。人間は夢がないと元気が出てこない。夢が叶う確率は低い。人間社会は競争社会です。動物と違ってお互い殺し合いして共喰いして生きているのです。人間同士、やるかやられるかという世界です。人間に生まれたせいなのだから、私に文句言わないでください。この競争社会で生き延びなくてはいけない。その程度で、必要な量を知って、適当な夢や目標を作っても構わない。しかし自分が立てた夢や目標にしがみついて、「それこそが人生だ」と思わないでください。それは生命共通の生存欲から発しているのです。原発と同じです。人間社会には電気は必要だが、こんな地震国でわざわざ活断層を探して原発作るってどういうことか。結局、自分を守ろうとして、自分を破壊して殺して終わってしまう。それを考えたうえでの夢を持ったほうがいいのです。いつでも好き勝手な夢を描いて追いかけるのではなくて、理性をつねに働かせるのです。

まず現状認識をしっかりしましょう。皆様は自分のことしか考えてないのです。どんな夢も自分のことばかり。自分を助けてくれるから家族のことも考える。まず自分の幸せを優先する。自分が幸せになってから、親のことも嫌々考えてみる。だから、周りはそれを壊そうとするのです。といっても、人間を恨んではいけないのです。人間社会は共喰い社会だから。人間の作った社会は、誰かが不幸になってその文誰かが幸福になる社会。誰かが不幸にならなくてはいけない世界というのは、人間が作った世界の仕組みです。これも生存欲と恐怖感という動物的衝動でつくったものでたいしたことない。

ではどうすればいいのでしょうか? 仏教の提案は「誰かに貢献してみてはどうですか?」ということです。夢や目標を持つならば、「誰かに貢献できる人間になってみよう」と決めること。自然を守ることでもいいんです。それには誰も反対しません。足を引っ張ることもしないし、何のことなく応援してくれるのです。気持ちを貢献することにする。この人間社会で、自分が殺されてないだけでもめっけものです。殺し合い社会で、殺されてないだけで人類に感謝しないといけないんですよ。世界の核兵器の数を考えたら……。またそれを振りかざしている国々の凶暴さを考えたら(北朝鮮のことではないですよ。皆さんが拝んでいる西洋の国のことです)……。

誰か一人でも貢献しようと思うと、その人にあまりライバルは出てこないのです。協力者は出てきます。あまり足を引っ張られないのです。夢・目標を作るなら、渇愛と違った、貢献する方向の夢を作ったほうがいいと思います。若者が音楽をつくるなら、音楽を通じて人々に安らぎをあたえましょう、元気になってもらいましょうと。そうすると人気が出ます。みんなの幸せを願うと売れます。みんな自分のことしか考えてないところで、誰かが「あなたの幸せを願います」と歌ったら、みな飛びつきますよ。そうやって、何か貢献します、という気持ちで医者を目指すならば、勉強も身につきます。勉強できるような気持ちになる。

これは、勉強する時の秘密でもあります。勉強しながら、「これがどのように人類の役に立つのか?」という気持ちを入れておくと、内容をびしっと憶えていられる。夢と希望は渇愛です。しかし夢と希望なしに生きるのも難しい。夢と希望を持つとみなライバルになって、足引っ張ろうとする。このジレンマを解決するためには、違う形の夢をつくる。それは、みなに貢献する夢をつくることなのです。

  

Q:(質問というか自分の求道人生について語ったご年配の方の言葉を受けて)

A:何か知りたければ生意気であったほうがいい。疑問があったらぶつけてきたほうがいい。自分が知りたいことをビシッと質問しなさいというのがブッダの立場です。経典の四分の三くらいは誰かの質問に答える対話。一方的に喋る場合は、必ず相手は出家弟子。在家相手の場合は相手の質問に答える。どんな質問が来るかわからないから、「自由に質問をしてください」ということは、ブッダにしかできない。「これは神の言葉だよ」と押し付けない。ブッダは調べなさい、考えなさい、疑問を出しなさいと、いうことで各人の命・人生を大事にするんです。命に価値はない、一切皆苦といいながら、とことん一人一人を尊重するんです。疑問があったら、ぶつけてみなさいよと。学校でも、子供にどんどん質問させると抜群に能力が伸びます(能力のない教師にはできませんけど……)。

宗教は信仰するものです。信仰する自分の立場が低いんです。仏教はブッダの教えを自分で勉強して、納得して自分がやってみる。それで自分が幸せになる。なぜやってみるのを嫌がるのか。幸福になりたいといいつつ、ブッダの言うことは嫌だと。世界の七割は神を信じているが、神様はおにぎり一個でもくれたことがあるのでしょうか? だれでも飢えている他人がいたらご飯あげますよ。それを神がくれたというのはどういうことか。(スリランカの子守唄のエピソード:「あなたの飲んでるおっぱいは天使がくれたものよ」という本歌を「あなたが飲んでるおっぱいは、天使でも神でもなく、私(母)があげているのよ」と本当のことを述べる替え歌にした女性歌手が話題を集めた)みな本当のことをいうのは嫌がる。聴きたくないのです。

渇愛があって、生きていきたいと思う。しかし幸福に生きる方法には、みな反対するのです。必ず、自己破壊の方向に歩くんです。それが人間の生き方です。幸せになりたい目的をつくって、それと反対の道を歩む。それをお釈迦さまは直している。それも「オレがブッダだ、言うことを聴け」ではなく、「私は教師です」と言っている。しかし形容詞は「偉大なる」師匠であると明言するのです。宗教家はみな神の言葉をかたる。ブッダはご自身を「神々と人間の教師である」という。神の言葉をかたって人々を騙している人々に対して、「私はその神様の教師ですけど、なにか?」と大胆なことを宣言している。ブッダはそうやって、他の宗教をとことんバカにしているんです。

世界の宗教が何をやっているのかというと、渇愛をさらに強化しているだけです。人間に根拠のない罪悪感を植え付けて、その上で神には愛があるんだと。屁理屈ばかり。それでも人間は鵜呑みにする。それは渇愛に燃料を与えているからです(永遠の魂、天国)。怒りに燃料を与えているんです(異端者だ!異端者は殺せ!と。現在のイスラムの国々をみてください)。皆さんブッダの教えに違和感をかんじるかもしれませんが、これが自由への道、やすらぎの道なんです。自由に解放された生き方をお釈迦さまは推薦していますよ。ブッダの教えを実践して心の邪魔者をなくすとものすごい能力を発揮します。しかしそれは生命のために使う、金儲けのために使うのではない。素晴しい世界が現れますよ。ブッダを偉大なる師匠と認めて、人類が学ぶならば。

私はとにかく、みなさんにお釈迦さまを紹介したい。日本では仏教、仏教と言いながら、仏教はお釈迦さまの教えだと知らないんですね。日蓮こそがブッダだとか、最近は「我こそはブッダの生まれ変わりだ」と言っている人までいる。(ブッダは2500年前に二度と生まれ変わらないと言ったのに。生まれ変わったならブッダは嘘つきだということ。だったら、いま言っていることも信頼出来ないでしょう。また、ブッダは魂はあり得ないといったのに、生まれ変わったブッダという人は、人間に偉大なる魂があるんだと言っている。めちゃくちゃです。)

ちょっと理性があれば、そんな与太話にはさようならと言えるのに。宗教の話なんか、怖くないのに。仏教の世界は、すべての束縛から解放されて、すべての能力を発揮して堂々と生きていられる世界なんです。信仰は必要ない。実践すればいいんです。(たとえ実践しなくても、)学んだだけでも心はしっかりしますよ。ブッダには、誰もかなわないんだからね。日本では、増谷文雄先生や中村元先生、最近は片山一良先生など、たくさんの学者がパーリ経典を翻訳しているが、学問の世界ではハンディが入る。翻訳ではパーリ語の生き生きとした意味が死んでしまうし、研究者の立場では、臨機応変に説法することはできない。学者の方々ができないことを私はやっているんです。

ブッダの言葉は厳しいのです。脳にパンチを浴びせる。目覚めるためには、ガツンと言わないと脳が回転してくれないんです。目覚めるためには、われわれの脳の働きを逆にしないといけない。そのために冥想があるのです。

(2012年5月5日 ゴータミー精舎法話と実践会Q&Aメモより)

 ※Facebookのノートにメモしていた文章をブログで順次公開していきます。

ありのままの自分(サンガ選書) (アイデンティティの常識を超える)

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 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~