ゴータミー精舎パーリ経典講義 相応部カッサパ相応6教戒(スマナサーラ長老の法話より)

Saṃyuttanikāyo Nidānavaggo 5. Kassapasaṃyuttaṃ相応部 因縁篇 5.カッサパ相応

6. Ovādasuttaṃ 教戒

王舎城因縁。摩訶迦葉尊者に釈尊が語る。「カッサパよ、比丘たちに教えてあげてください。比丘たちに真理の話(法話)をなさい。比丘たちに何かアドバイスするならば、私かあなたですよ。比丘たちに真理の話をするならば、私かあなたですよ。」

(※釈尊はマハーカッサパ尊者を自らと同格に認めている。このような表現は他に見えない。)

摩訶迦葉尊者「いまの比丘たちは人の話を聴きませんよ(言われにくい性格ですよ)

(※頑固な人々には話しし辛い。放っておく。仏教の世界は厳しい。言われやすい性格の人はどんどん成長する。言われにくい性格の人は自己破壊する。)

アドバイスしづらい性格です。育ち難い性格です。教えを素直に受け取らない(反対に受け取ってしまう)。

(※経典の例:余分な衣を持つことを嗜めると、じゃぁ捨てればいいでしょうと衣を全部捨てて裸でいる、とか。)

アーナンダ尊者の弟子のバンダという比丘と、アヌルッダ尊者の弟子のアビジカという比丘がいる。この二人は自分が勉強したことで張り合っている。勉強したことでお互いを攻撃している。『見てください、どちらが教えをたくさん憶えていますか?(経典をたくさん記憶している方が勝ち)どちらが((正しい節で)美しく語れますか?どちらが長く語れますか?』と。」

 (※すごく熱心に勉強しているけど、それが仏教ではだらしない性格、教えてはいけない性格ということになる。)

釈尊がバンダとアビジカを呼ぶ。出頭した二人を問いただす。

釈尊「私は、お互い争論してくださいと貴方がたに薦めているんですか? そんなこと言っていないのに、なんで争論するんですか。」 

(※パーフェクトに説かれている(善説)仏法をごちゃごちゃ議論して汚すなよと。)

二人は懺悔した。「たいへん愚かな阿呆なことをしてしまいました。」

釈尊「間違いを間違いと認めて、あらためるならば、貴方がたの懺悔を受け取ります。罪を罪と見て懴悔して改めるならば、ちゃんと成長できますよ。」

(※意味のある懺悔の習慣は仏教にしかない。いるわけもない神に懺悔しても意味が無い。そんなのインチキです。キリスト教でいう、神の子を犠牲にしたから人類の罪が償われた、という理屈もわけわからない。神が自分の身内を殺して、なんで人類の罪の弁済になるのか? そこまで親切な神なら、なぜ始めから人間の罪を許してあげないのか? そんな残酷なことしなくても。もう、無茶苦茶です。それに、なんでサタンがいるんでしょうか?『いつかサタンが負けますよ』っていつ負けるんですかね? 神とジーザスは何をやっているのか? おかしい屁理屈。サタンを放置していること自体、神の過ちでしょう。そんな、へんてこりんな教えがなぜ世界に根付いているのか不思議です。人間がいかに人間らしからぬか、ということ。微塵も理性が無いんです。

懺悔というのは『私が過ちを犯しました』ということで、自覚が無いと意味が無いんです。自覚があれば懺悔に効き目があります。日本語でいう反省です。自分の行いを見て、これはダメだと思う。それだけでは罪は消えない。そこで自分の性格を改めて再調整するならば、それで罪はチャラになる。人間の罪はジーザスにしか贖えない、というなら信仰するしかありませんね。)

(2012年1月20日 ゴータミー精舎パーリ経典講義メモより)

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瞑想経典編 (初期仏教経典解説シリーズII)

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