リーダーも独裁者もいない民主主義(スマナサーラ長老の法話より)

宗教は苦しみを隠す

みなさん初期仏教の伝道活動を、熱しやすく冷めやすい国民性にもかかわらず、激しく熱くなることもなく、急速に冷めることもなく、程良く頑張ってくれたことは、素晴らしいことと思います。仏教は独裁者がいないから大変なんです。仏教は独裁的なリーダーを作らずに、民主主義で仲良く活動できないかと、世にありえないことを実践しているんです。生命は本来、自由でしょうし、束縛されていることは問題なので、その問題を解決しましょうとお釈迦さまは仰っている。『縛られていると苦しいから、それから救われるために他の独裁者に従ってください』というのが世の中にある宗教です。やけどで苦しんでいる人に、こちらの焚き火に飛び込んでくださいと勧めるようなもの。宗教とは、小さな苦しみを大きな苦しみで隠してやろうということ。

生命は本来自由である

 お釈迦さまは、生命は本来自由である、と[説かれた]。しかし[現実には]自由でない。自由でないのは他人のせいではなく、自分のせいであると説かれた。生命は束縛されている環境のなかで、いろんなものに執着して離れられなくなって、イソギンチャクのように他に依存して生きている。お釈迦さまは自分の心を自由にすべきではないかと仰って、そのための方法を示したのです。

民主的な組織運営

皆さん組織を作るのはいいけれど、束縛しあう関係ではなく、仲間として生きていくことが大切。出家には厳しく言っているが、在家にはあまりゴチャゴチャ言っていない。民主的に組織運営するには慣れてないと難しい。理性が必要なんです。誰かがマネジメントすると、リーダーになって他の人々に命令したがる。それは民主主義にならない。民主主義は各自が持っている能力を、社会のために出すこと。お互いの能力を出した時に民主主義の組織になる。お互いに幸せ。みな自分ができることをやっているんだから、自分は楽しい。周りにとっても楽で便利なんです。周りも自然に心が明るくなって、助かった、よかったと。

できる能力を提供する

できる能力を提供するっていうのはいたって簡単なことです。ここで誰かが病気になったら、(僧侶である)私が治療するのではなく、医者が治療すべき。世間では能力ないのに努力することを褒めるが、私はそれに大反対。民主主義の組織では、無理なことを努力するのではない。人間、何かしらできることがあるんです。自分にできることで仲間に貢献してあげる。これはぜんぜん無理じゃないし、楽しいこと。何かやって楽しいか否かとチェックするポイントもそれ。できないことやってると楽しくない。できることやってると楽しくなって、時間も忘れて、過労もまったくない。徹夜しても明るい。できることをやってるから。そういう組織が出来ればいかに幸福で楽しいか。そのためには、理性が必要です。自我を張るんじゃないんです。自我を張るとできないことまでしようとする。人を抑えつけようとする、管理しようとする、命令しようとする。それが自我貼ったということ。それでみな嫌になって、あらゆる規則で束縛しないといけなくなる。それでリーダーが生まれて、恐ろしい組織が出来上がる。

宗教組織のおかしさ

日本の宗教組織では、教祖・会長が死ぬと、その息子が次の教祖・会長になる。なんと阿呆なことかと思います。能力ある人が会長になればいいんであって、親と子供は同じじゃないでしょう。財産は相続してもいいけど、才能は別でしょう。たとえば父親が物理学の博士で、息子は高校も中退している。で、父親が死んだら息子が物理学者の博士になる? 宗教の世界ではそれをやってるんですよ。日本ではブッダの生まれ変わりと称する人がいるが、彼が死んだら、次は誰が「われがブッダの生まれ変わり」と言うのかとw 私は年寄りだから見れませんけどね。北朝鮮で死んだ誰かさんも、とんでもない長い肩書きをつけていた。なんとバカな話かと思うけど、連中はそれでいいんです。神様に仕立てて、あとでインチキのストーリーを作ればいい。民主主義がないというのは、いかに危険なことかということです。国の管理役は必要ですが、それは能力有る、出来る人がやればいいんです。私の偏見と批判されるでしょうが、世の中には民主主義はないんです。

和合が無いから和合を叫ぶ 

仏教の世界では一生懸命、民主主義の組織、というより、仲間、輪・サークルをつくろうとしてきたんですが……。和合というのは仏教ではうるさいほど使っている単語なんです。日本(和国)ではそれに特許をとっていますが、国会中継を見てください。これが和合のある国かいと。それはともかく仏教の和合のたとえがあります。水と牛乳が混ざり合うように、違う性質の液体を混ぜても見事に同じものになってしまう。それが民主主義ということです。一人ひとりが違っても、一緒になったら見事に一つになると。もう一つのたとえ、インドには沢山の川があります。それぞれの川の水は同じではない。しかし世界にどんな川が流れても、やがて海に行く。海に入ったら威張れますかね?私は聖なるガンジス川から入った水だから近づくなよ、とか。そんなこと言えない。1つになるんです。同じように、どんな富豪であろうがホームレスであろうが、肌の色がどうであれ、カーストがどうであれ、ブッダの世界に入ったら皆仲間だと。そうやって和合するのが最高の幸福だと。

ずるい人は他人を褒める 

しかし、みなそれをやりたがらない。みな個性を出したがる。アイデンティティを発揮したがる。日本では人気ある言葉ですが、無知な人が言っているだけ。仏教では皆平等で民主主義だよと。ただ自分の能力で貢献しなさいと言っているのです。自分の能力で貢献することで、人生に充実感が生まれる。周りにとっても、それが有りがたくて仕方ない。そこで特別に褒めてくれ、なんていう気持ちが生まれてくると、ややこしくなるんです。人間は阿呆だから、ずるい人は他人を褒めるんです。貴方は凄いんだと。そういう人は、リーダーになって独裁者になるんです。

自我を張る人は問題を作る 

皆さん、理性を持って民主主義でやっていこうと努力すれば、誰にも何も言えないようになると思います。自我を張る人は問題を作る。派手に活動しているように見える私にしても、自我を張ることはしない。ただ、自分にできることをやっているだけです。余計なことにはクビを突っ込まない。できることはたくさんあっても、これは他の人にもできるんだよと分かったら、やらないんです。しかし、自分しか演る人がいない、自分がやらないとマズイな、というところがあったら、必ずやらないといけない。掃除をするにしても同じことなんです。皆様は皆様のできることをずーっとやってきたでしょうし。ウェーサーカ祭にしても、それぞれの方が頼まれたわけでもなく、自分にできることをやったら、盛大なものになったでしょう。別に誰かがリーダーになったわけではないのに。そういう絶妙なやり方というのは、スリランカミャンマーにもあまりないんです。

リーダーも独裁者もなく 

皆さんはリーダーもなく、独裁者もなく、これまで見事にやってきたでしょう。ものごとがうまく行っている時は、だれか中央の差配でコントロールしてやっているから、うまく行っていると勘違いする。まとめているのは誰かと探してしまう。この思考で『神』まで生まれたんですから。でも、中央管理局はいません。管理者もいません。誰がたくさん仕事したということでもない。川の水が海に入ったら、もう分からないんです。総合的な結果なんです。これからも、そういう精神で。お釈迦さまの教えのとおりですからね。もしうまく行かなかったら、どこかで自我を出しているはずです。その時は私も嫌な顔を擦るかも知れませんが、それ以外は口出ししません。ブッダの教えを多くの人々に知ってもらうために、よく憶えておいてください。この団体には若い人々が来る確率がすごく多いんですよ。他は爺さん婆さんばかりですから。ブッダの教えを学べば立派な人間として独立して生きられるようになりますからね。これに勝る社会貢献はない。人にご飯をあげても、三時間で終わりますから。人を育てるということが究極のボランティアでもあります。

自然にしておくと汚れる 

部屋を掃除しても、その瞬間から汚くなります。そこで一つのPrincipleが見えるでしょう。自然にしておくと汚れるんだと。汚れないためには、自然を超えることが必要なんだと。掃除をして、きれいになっちゃった!というのは自分騙しです。自分の眼には汚れが見えない、それだけ。気分的には掃除機をかけて、きれいになった気になった、ということ。我々も俗世間のレベルで掃除をします。ではほんとにキレイになるのかと。ならないんです。そこで、自然法則とは何かというと、汚れることなんです。キレイという境地は、この世の次元で存在するものではないんです。これが心の法則です。お釈迦さまは、キレイという言葉を物質には入れていないんです。もちろん仏教では、身の回りのすべて整理整頓して調えることを厳しく言います。仏教では誰が掃除するかというと、汚れを見つけた人。汚れているなぁと思ったら、掃除するのはその人の義務なんです。沙弥がやれとか、長老がやれ、ということはない。それこそ民主主義でしょう。

汚れることが心の法則

物質に関して、キレイ、キタナイ、ということは成り立たないんです。性質的には、心が汚れるんです。心の法則は、汚れることが心の法則なんです。何かやったからといって、いい気分になるだけ。また汚れます。それは掃除する時に観察することなんです。手洗いをキレイにしてピカピカだと。しかしひとり入ったら終わりです。それぐらい、早く汚れます。でも物質世界で汚れていると言えるのか。それは人間の主観です。だから各人の家の状況は違うでしょう。それぞれの人のキレイ・キタナイの判断で掃除する。

仏教は超人法 

汚れることは自然の流れであって、たまたま人助けして、いい気分になっても、それで心が清らかになったわけじゃないんです。年に一度、いいことをしたからといって。我々は日々、善いことをすべきなのは当たり前ですが、それでも心は汚れます。ブッダの瞑想修行をして、実践をして、心を清らかにしたら、それは自然ではないんです。汚れない心は自然の心じゃないんです。その心に至った人は自然を乗り越えている。だから、仏教は超人法(ウッタリマヌッサダンマ)と言うんです。

おわりに 

そういうことを理解して、皆様、明るい気持ちで。皆さん平等ですからね、それぞれの能力を出して、明るく活動したほうがいいと思います。皆さんは誰にもできないような得を積んでいるんです。では、お経でもあげて……クリスマスの法要でもいたしましょう(爆笑)

(2011年12月25日 ゴータミー精舎大掃除のあとの特別法話メモより)

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テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~