「あなたの愛情が子育てをややこしくする ~ブッダに学ぶ「慈しみ」の子育て~」(スマナサーラ長老の法話より)

 仏教の話は親の躾と同じ。子供がしつけられるのを嫌がると同じく、皆さんも嫌な気分になるかも。子育てに『愛情』が危ないというと嫌でしょう。子育ては愛情がなくてもできる。猿でも昆虫でも子育ては完璧にできる。人間も子孫を育てる能力が本能に組み込まれている。愛情が絡むとそれが壊れる。誰一人子育てに心配する必要はない。子供が生まれると、男女とも身体に変化が起こる。それで見事に子育てできる能力が出てくる。

人間が子育てに悩むのは文化を持ったから。これがややこしい。アーティフィシャル(人工的)なもの。命には全然関係ない。真剣に考える必要はない。人間に子育て能力は先天的にあるが、アーティフィシャルな日本社会の仕来りに合わせて育てないといけない。そこで手こずる。アーティフィシャルな習慣は命に関わらないから子供は嫌がる。なぜやらないといけないか分からないから。だから命に関わるように教えないといけない。「そんなことしたらかっこわるいよ」とか「挨拶するといい子だと思われますよ」と。それは子供の命に関わるのでしっかり聞く。子育ては人工的な文化に適応させるために苦労する。子供には、因果関係に沿って教えてあげないといけない。これをしたらどうなるでしょうか? と問いかける。

子供は頭が論理的にできているから、こうしたらこうなる、こうしたらこうなりますよ、と教えてあげればすぐ理解する。ゴミをちゃんとゴミ箱に捨てるのは人間で、猿はそのまま放置しますよ、と教えれば一生懸命ゴミを片付けるようになる。

仏教的には『私の子供』はいません。もっと大きな人類の子供なんです。子供は人類のメンバーだけどまだ会員になれない。私の仕事は一人前の会員にしてあげるために人類から預かっているだけだと。人類の一員として立派に育てるんだと。立派な日本人として、でもダメです。日本がもし潰れても、どこでも生きていられるように育てないと。時々、親が自分の好きなように子供を育てる。あれは犯罪です。あくまで人として、人類の中で立派に生きられるようにしないといけない。この発想がないから、日本でよく起きているのは、イジメです。イジメのNEWSを見るたびに、人間失格のことをしていると思う。

お母さんがよく、『知らないおじさんと話すなよ』という。あれは言ってはいけない言葉です。知らない人と話すなよ、ということは、人類と話すなよということ。親が子供を人類から切り離して牢獄に閉じ込めること。自立できない引きこもりを育てること。それは犯罪行為です。子供には、知らない人でも目上の人に自分から挨拶しなさいと教えなくちゃいけない。

親の仕事は子供を独り立ちさせること。しかしそれはもっともしづらい事になっている。私の子供、と執着して、子供に殴られることになる。子供の本能のプログラムには親に依存しろとは書いてない。自立して生きろと書いてある。まだ幼い時はそのプログラムが機能しないだけ。

親が最初から子供は社会の一員だと育てていれば、反抗など起きない。時期が来ればさっさと離れるだけ。親が子供を社会に出そう出そうと育てると、始めて子供は親の苦労を理解するようになる。

親孝行は本能のプログラムに入っていない。だからあえて育てるべき道徳。早く頭に叩き込まないといけない。愛情の問題。なぜ愛情がいけないかと言えば、それが所有欲だから。人間は、生命は、自由でありたいと思っている。しかし社会の依存関係で様々な拘束がある。自由でありたい生命を『私の子供』と見ることは法則違反。その報いは受けます。自分の子供から殴られたり、殺されたりする。その精神的な痛みは酷いもの。

親にとっては子供への愛情が並ならぬ苦しみを作るのです。親の愛情があらゆる問題を起こす。子供は何とか親との縁を切って、切れないなら殴って、それせもダメなら殺してでも出て行こうとする。でも親とトラブル起こして出て行っても正式な卒業じゃないから、人生がしていても暗くなる。親から祝福されて頑張ってるんだという気持ちが、本人を後押ししてくれる。逆に親から離れずに親元に寄生し続ける。ずっと奴隷のように面倒見てくれたのだから、これからも大丈夫だろうと。それで社会の生ゴミ、寄生虫ができあがってしまう。

子供への愛情によって、様々なトラブルが起こるんです。仏教は愛情の代わりに慈しみを推薦します。

親子のよい関係は愛情からは出てこない。慈しみから出てくる。慈しみというのは全ての生命への優しさなんです。(自分の母の思いで話)母は全ての生命を大切にしていた。小さなメダカをとっても怒られた。この子も生きているではないか、あなたと同じではないかと。『あなたと同じ』とよく言われた。

自分の子供への愛情ではなく、一切生命への慈しみを育てること。狭い人間性を破って、偉大なる観音様になるんだと。そう思えば一人二人の子供を育てるくらい、どうってことないでしょう。幼稚園でも園児みんなを慈しみで、一つの水のように見る気持ちになれば。うちの子、うちの子、という気持ちが出ると、関係がうまくいかなくなる。

差別は微塵もあってはいけない。差別があるということは、慈しみがないということ。

子育てはそんなに大変なことじゃないんです。情が入ると疲れます。子供が一人前になったら、親の財産を受ける権利はない。子供は自分の力で生きていかないといけない。相続させる義務はない。親の財産をあてにしてはいけない。親子関係はそんなもの。親の義務は子供を一人前に育てて、はい卒業と、卒業証書をあげることです。

(講演終わり ここからQ&A)

Q重度な知的障害の子供を抱えている。その子が育つというのはどういう事なんでしょうか?

あまり将来のことなど考える必要ない。自分に生まれてきた子供は自分に育てられるんです。障害を負った子は親に大きな充実感を与えてくれる。人類の一員ですからね。(その子の母として選ばれて、)人類の一人を自分が預かったということ。育てることも人類の責任。親がやれるところまで頑張って出来なくなったら、誰かがバトンタッチしてくれる。障害、障害と思わないこと。他と比較したりしないこと。だから何よ?という厳しい親の気持ちを持たないといけない。五体不満足乙武さんも、本を読むと母親の人間としての偉大さが読み取れた。母がだから何よ、という態度で育てたから、乙武さんはあそこまで育った。知的障害の場合はどうしても一生面倒見てあげないといけないけど、だから何よ、という気持ちを忘れないで。預かった人類の一人を責任もって育てているんです。

Q自然に湧いてくる愛情について。

愛情と同じく、怒りも自然に湧いてきますよ。ですから愛情が湧いてきた時はすぐに慈しみに入れ替えてください。どの母にも子供は大切なんだなぁと。普遍的に観察すると、慈しみに入れ替えられます。

Qテレビゲーム漬になってしまう子供について

この世界は汚い。ゲームに依存させて、買わずにいられない状況を作る。仏教的にはこれは盗みです。いまの産業社会はほとんど盗みをしている。依存させて買わせる。子供は遊ばないといけない。昔は遊びで人生を学んだ。遊びを通して一人前の人間になることを学ぶんです。ゲームも現代の文化になっているが、ゲームを通しても何か能力が上がるようにしないといけない。

はっきりした答えはないが、ある子供に私はこう言った。これはゲームボーイじゃなくて本当はNHKというんだよ、N能力H破壊K機械と。そう言えば微妙に子供の心にも入るでしょう。自己管理しないといけないんだと。

脳は喜び感じると成長する。落ち込むと危険です。我々は24時間喜びを感じて生きないといけない。それが下手だからわざわざゲームをする。人生の中からいつでも笑いを見つけること。それは子供にも教えてあげてください。

Q愛情と慈しみの違いについてKWSK

愛情という場合は所有欲が絡んでいます。それには気をつけること。夕焼けを見て美しいなと思う時は所有欲が絡んでない。大したことがない。無償の愛というとまた問題。慈しみでは、犠牲を払うことを認めません。他の生命を慈しめば、当然、他の生命からも慈しみが帰ってきます。身を捨てて犠牲になれというのは危険。見返りは期待しないが自分の義務は果たす。期待しなくても幸福の権利を得ている。

我々は借りだらけの人生です。親や周りの人々、教師や社会から借りまくって生きている。この膨大な借りを返す方法は一つだけ。無条件で一切生命を慈しむことだと、釈尊は仰った。無条件で、です。慈しみさえあれば、死の瞬間でも幸福に包まれて死ぬんです。分かりにくければ、自分の子供だけではなく、周りの子供達にも愛情を広げてみてください。

(2011年11月19日スマナサーラ長老宮崎講演会より)

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~