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「主権者」は誰か? ~主権在民の現代では一人ひとりが小さな転輪王~(『日本「再仏教化」宣言!』より)

現代仏教論

 

 

 

そーだ!そーだ!これらのツイートに大いに触発されたので、拙著『日本「再仏教化」宣言!』に収録した「主権者」論を以下、転載します。通年国会の是非とか、いまとは微妙に見解が変わったところもあるけど、サブタイトルだけ変えて、そのまま載せます。

 

「主権者」は誰か? ~主権在民の現代では一人ひとりが小さな転輪王~

仏教徒は世捨て人ではない

 前章は、次のような文章でしめくくりました。

 世の中は無常で因縁により変化します。自分のこころも無常で因縁により変化します。いま初期仏教に惹かれている人々の心も変化して、敵を殺して救済を得ようとする「首狩り宗教」の熱烈な信者に豹変する可能性はあります。私も、あなたも、です。ですから、言論の自由があり、まだ社会が完全に狂気に覆い尽くされていないうちに、お釈迦様の教えを深く学んで、よく理解して、もう二度と首狩り宗教の網に絡め取られないように、後戻りしない聖なる智慧を開発することが肝心だと思います。余力のある人は、平和の終焉を一瞬でも先送りにするための努力に、加わってみるのも悪くないでしょう。

 今回はその「平和の終焉を一瞬でも先送りにするための努力」を私たちはどのように実践すればよいのか、ということについて書きたいと思います。私たちは仏教徒として、政治や社会問題とどう関わるか、という問題です。ただ、このテーマについては、そんなに書くこともないのです。

 結論からいえば、仏教徒だから政治的・社会的な発言や活動をすべきではないとか、慎むべきだとかいうことはないです。仏教をやっているのに政治的な発言をするのはおかしい、というような半可通のことをいう人もいます。確かに長部1『梵網経 Brahmajārasutta』などでは、出家者は国王の話、大臣の話、戦争の話など、政治談義にふけることはないとされています。しかしこれは俗世を離れて托鉢で生活する出家者の話です。古代インドでも現代日本でも、国の主権者は政治を行います。古代インドの主権者は専制君主たる王一人であり、現代日本の主権者は国民一人ひとりです。ですから仏教徒だからといって政治的な発言を控えろとか、政治に関わるなとか批判することは成り立ちません。そういう批判は仏教を正しく分別しない人しかできないのです。主権者たる国民・市民がその責務を果たして政治参加することは、社会を健全に保つために不可欠です。仏教徒ならば、仏教徒としての行動規範に則って政治参加を含む市民の務めを果たすべきだと思います。

 これは制度に迎合すべきということでもありません。万が一日本でも徴兵制度が施行されて兵役につくことになっても、戦場で人を殺すのは釈尊からいただいた殺生戒に反するのだから、何としても回避すべきでしょう。会社の利益のために取引先に嘘をついたり、部署の裏金を作るために公金をちょろまかしたり、という「みんなやっていること」でも、仏教徒ならば避けるように智慧を働かすべきです。しかし政治に関わることは五戒に反しません。現代社会に住まう在家者としては、当然の責務です。

 公民教育が希薄な日本ではあまり意識されませんが、政治や社会問題について発言すること、話し合うこと、選挙に行くこと、ひいてはデモや抗議行動に参加すること、政治家へのロビー活動をすること、または自らも選挙に立候補すること、これらは仕事したり家事をしたり勉強したりするのと同じ市民生活の営みです。それ自体が、不殺生など五戒に反することでもありません。仏教の善悪基準として、貪瞋癡を激しく燃やす行為は避けるべきです。たとえば政治的なデモに参加したとしても、怒りで我を忘れないために日頃の仏道実践を活かせばいいだけのことです。仏教をやっているから政治的発言や行動を控えるというのは、頓珍漢な態度なのです。 

思想的立脚地

  近代日本を代表する仏教学者の一人、木村泰賢はこのように述べていました。

 総じて仏教運動に欠けている大事な要素がある。即ちそれは思想的立脚地の確定し居らぬことである。換言すれば仏教運動と称しながら実は仏教思想をいかように体系づけ、之をいかように現代的に実現するかの根本方策を欠いて、ただ漫然と仏教主義とか仏陀の精神に基づいてとかいうが如き表幟を以てすることである。(『祖国 PATRIA ET SCIENTIA』創刊號、學苑社、一九二八)

「仏教思想をいかように体系づけ、之をいかように現代的に実現するかの根本方策を欠いて」という弊害は、昔から言われてきたことなのですね。しかし、仏教思想を体系づけ、これを現代的に実現する、ということはパーリ三蔵に依拠すれば比較的簡単にできるのです。それどころか仏教の価値観を基準、思想的立脚地にして政治や社会問題に取り組めば、きっとそれが人類にとって、あるいは地球に暮らす生命にとってもよい結果を齎すはずです。では仏教ならではの政治的な価値判断とは具体的にどういうものになるのか? 日本の現状に即してギュッと凝縮した形での結論は、日本テーラワーダ仏教協会の機関誌『パティパダー』九月号の編集後記に、次のようにまとめました。

 来る九月一五日に国内で唯一稼働していた福井県大飯原発の全原子炉が定期検査に入り、昨年五月以来の国内原発稼働ゼロが実現します。選挙での与党大勝と裏腹に日本は一足飛びに原発再稼働・推進路線に突き進むわけでもなさそうです。燃料調達費の高騰問題は指摘されても、原発を動かさなければ明日にでも大停電が起こるという恐慌キャンペーンは影を潜めました。電力会社の経営再建のため危険な原発を次々に稼働させるべきかと問われれば、何もそこまでと躊躇するのが一般的な感覚でしょう。ましてやプルトニウムを蓄めて潜在的な核武装能力を保持せよという主張に賛同する人は、右傾化した昨今とはいえ少ないと思います。東電福島第一原発事故の収束作業は破綻寸前なのに、いまだ東京電力なる私企業に委ねられています。超がつくほど国家主義的とされる現政権からも、原発事故を総力あげて封じ込めようという国家意志は感じられない。結果、太平洋に膨大な放射性物質を垂れ流す最悪の事態になす術もありません。為政者の口をつくのは、死の灰の商人と囁かれる海外への原発セールスや武器輸出三原則の撤廃。近代国家の建前すら放棄しようという憲法(祖法)改定。かつて家電や自動車で知られた貿易国は、七不衰退法の真逆を歩み、また世尊が在家に禁じたもう毒物(放射能)と刀剣(武器)の輸出で糊口を凌ごうとしています。テーラワーダ仏教では共業(集団行為の業)をあまり論じませんが、悪行為に悪果しか望めないとは正法が世にあろうがなかろうが変わらぬ真理です。主権在民の現代では一人ひとりが小さな王として国や社会に責任を持ちます。時には転輪王の理想を胸に、悪を止めて善を修しましょう。(梛)

 文章の前半部分は時評です。世間では忘れかけているようですが、私は日本が脱原発を果たせるか否かは、国家の将来を左右する大問題だと思っています。ですから当然、反原発脱原発の立場から、日本政府や東京電力を批判しています。東京電力福島第一原発事故の収束がまったく見通せず、事故原因さえ曖昧なまま海外へ原発を売りつける政権への批判、平和国家という国是を放棄して武器輸出に走ろうとしていること、権力の暴走を防ぐという憲法の基本的なあり方も変えようと目論む自民党など改憲派の動きについても批判しています。

 後半で、いくつか仏教のキーワードを使っています。憲法改正に絡めて言及した七不衰退法(Satta aparihqānīyā dhammā)とは、釈尊在世の時代にインドにあった議会制のワッジー国が末永く繁栄するためにと説かれた教えです。増支部七集ワッジー品、長部16『大般涅槃経』に出てきます。世尊が在家に禁じたもう毒物(放射能)と刀剣(武器)の輸出というのは、増支部経典5集に出てくる、在家仏教徒が避けるべき五つの商売に準じています。共業については前回、触れました。主権在民の現代では一人ひとりが小さな王というのは、パーリ経典に説かれた政治論を現代に活かすための僕の解釈です。転輪王の理想がその政治論の内容です。

七不衰退法と民主主義の実現

 七不衰退法については、スマナサーラ長老『テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え』(大法輪閣、二〇一〇年)「Lesson8社会の繁栄と安定のために(2)民主主義の実現を説く」にて詳述されています。仏典によれば古代インドには、十六大国と呼ばれる国々が割拠していました。ワッジー国はその一つに数えられています。同国は君主を抱く王制ではなく、議会によって統治されていました。ワッジー国と釈尊が生まれた釈迦国、そしてマッラ国の三国はこの体制をとっていました。詳細は不明ですが、議会制といっても現在のような国民主権の民主主義国家ではなく、部族の有力者が議会に集って国を運営していたのだと思います。これらの議会制国家では、議会に参加する議員のことを王(rājā)と呼びました。ワッジー国で政治に携わっていたのはリッチャヴィー(licchavī)王族です。お釈迦様はご自身も議会制の国に王(rājā)の一員として生まれ育ったので、ワッジー国に親近感を抱いており、ゆえに七不衰退法という形で国の正しいあり方を説かれたのでしょう。では、七不衰退法の項目を挙げます。

①頻繁に集会を行うこと。

②会議の開会と解散、又議事は和合を持って行うこと。

③昔から定めていないことを新たに定めたり、定めたものを破ったりはしないこと。

④経験のある目上の長老たちを尊敬する。彼らの意見に耳を傾けること。

⑤女性を強引に自分のものにしないこと(女性の権利を尊重すること)。

⑥今まで、伝統的に行ってきた信仰・宗教に関わる儀礼・儀式・祭典などを行うこと。

⑦真理を悟っている聖者たちの面倒を見ること。将来も聖者たちが訪れますように、訪れた方々が楽におられますようにと。

 このうち①②は国会運営の指針としてそのまま用いることができます。政府が野党の追求を怖れて国会を開かないということは邪道であり、通年国会を基本とすべきです。④は衆院・参院の二院制をとっている日本の議会制度をどう活かすか、という指針になると思います。⑤は現代の表現に直せば男女平等・共同参画ということになります。⑦は国が聖者に敬意を払いなさい、ということです。宗教家がみな真理を悟っているわけではないので、宗教家をちやほやしろということにはなりません。しかしもっと幅広くとって、真理を探求・研究する知識人を大切にするならば国も社会も向上発展するでしょう。憲法遵守に関わるのは③です。現在の憲法には改正規定がありますが、議会や議会から選ばれた政府が憲法を蔑ろにしたら政治は成り立ちません。国民主権と非戦平和主義を掲げた日本国憲法はいわば日本の国是なのですから、政治家がそれに従うことが社会の繁栄と安定に資するのだと仏説を敷衍して言うことはできると思います。また、前回触れた靖国神社問題は⑥に関わります。戦死者を神として祀り慰霊顕彰するという靖国神社の信仰は明確な邪見です。連載の第十一回で提案したように、敵味方や軍人・民間人を分け隔てなく戦禍で亡くなったすべての人々を追悼する日本の国是に相応しい追悼施設へと「伝統の組み換え」を図ることが必要でしょう。

 このように少々踏み込んで現代日本に当てはめてみましたが、七不衰退法は政治理念というより、合議制で運営される組織や社会におけるマネジメントの要目です。後に紹介する、仏教の政治理念を補佐する教えと考えたほうがいいでしょう。

在家仏教徒が避けるべき五つの商売

 次に触れたのは、在家仏教徒が法(ダンマ)に従って生活する上で避けるべき商売です。

 比丘らよ、優婆塞(在家男性信者)はこれら五つの商売をするべきではない。何が五つであるか。①刀剣商売(武器の製造と販売)、②人身商売(奴隷商人)、③肉商売(家畜の飼育販売)、④酒商売(酒造・酒販業)、⑤毒薬商売(毒薬の調合・入手・販売)。比丘らよ、優婆塞はこれら五つの商売をするべきではない。(増支部五集一七七)

 註釈書によれば、「そのうちで刀剣商売と毒薬商売は他人を破壊する因となるから行うべきでないと言われる。人身商売は奴隷のあり方を作るから、肉商売は殺害の因となるから、酒商売は放逸の原因となるからである。」と説明されています。(浪花宣明『サーラサンガハの研究』平楽寺書店、一九九八、一九七頁)

 もちろん、釈尊の戒めは、これらの邪命となる商売が社会に存在していることを前提にして、せめて三宝に帰依する在家者はこれらを避けるべきであると説いたものです。しかも、対告衆(説法の相手)は在家信者ではなく比丘です。釈尊は在家に向かって、生活の細々とした道徳項目を掲げることは極力避けたのですね。私たち在家仏教徒は、お釈迦様が出家弟子に語られた言葉を間接的に聴く、という形で「避けるべき商売(生業)」とは何かと知るわけです。ですから、個々の生き方において、これら五つを生業としないようにすればいいことです。

 しかし後にも触れますが、国民一人ひとりが主権者として統治に責任を持つ近代民主主義国家においては、これら五つの邪命に依存しない社会を築こうと努力することは個の生き方の延長として成り立つと思います。特に②人身商売は今では国際的に禁止されています。釈尊は二千六百年も前に、人を奴隷のあり方に貶める人身商売を自らの信者に対して禁止されたのです。しかし実際の社会情勢をみると特に日本は事実上の人身売買が横行している国として非難を受ける場面もあります。仏教徒として国に人身商売の禁止徹底を求めることが肝要です。③肉商売は、かつて肉食忌避がされていた日本においても市場規模が大きくなっています。しかし生物学の最新知見に基づいて、「苦痛を感じることができる」生命は動物福祉の対象とすべきという議論があります(参考:ヴィクトリア・ブレイスウェスト『魚は痛みを感じるか? Do Fish Feel Pain?』紀伊国屋書店、2012)。動物たちに苦しみを与えて殺害する食肉産業の規制・抑制について問題提起することは大切でしょう。④酒商売は日本では野放図にされてきましたが、飲酒運転事故による惨事やアルコール・ハラスメントの提起など、少なくとも飲酒強要の悪弊を改めようという気運は生まれています。肉商売と同じく、依存度を減らすよう働きかけることは可能だと思います。①刀剣商売、これは銃や戦闘機、爆弾、大量破壊兵器などの武器に当たります。戦後の日本では、国内に軍需産業はあっても武器輸出は平和国家の国是から自粛されてきました。武器輸出三原則の緩和によってそれが蔑ろにされようとしています。武器は確実に殺人のために用いられます。他人を破壊する因となる武器商売(死の商人)に日本国が手を染めれば、その悪報は日本国民が受けることになります。⑤毒薬商売、現政権が推進する原発輸出政策はまさにこれです。過酷事故で立地国やその周辺に回復不能の汚染を齎す原子力発電所(核電)を日本の目玉商品としてセールスする。自国での原発事故がまったく収拾できず、毎日数百トンの放射能汚染水を太平洋に垂れ流し、大気中にも決して無視できない放射能を放出し続けているにもかかわらずです。数万年単位で管理が必要な放射性廃棄物問題も誤魔化したまま、金儲けのために他国に猛毒・放射能プラントを売りつける。この悪業の報いも、後に国民全体が受けることになるでしょう。因果法則を知る仏教徒は、これらの動きを何としてもストップさせるべく努力すべきでしょう。

主権在民の現代では一人ひとりが小さな王

 ワッジー国の人々に説かれた「七不衰退法」を除けば、釈尊が残された政治論は覇権国の専制君主とりわけコーサラ国のパセーナディ王に向けて説かれました。というより、王の行動への批評として説かれたのです。『相応部有偈篇コーサラ相応』一の八経では、パセーナディ王が大規模な動物供犠(いけにえ儀式)を準備しているとの報告を聞いた釈尊が、動物供犠が無益であるという詩をうたいます。わざわざ出かけていって止めさせることはなかったのです(直接目の前で動物供犠が行われていれば、一言いったことでしょう)。いくら釈尊といえども、為政者に政治の理想を直接説くことは難しかったし、越権行為にもなりました。アジャータサットゥ王に取り入って宮廷政治家まがいの振る舞いをしたデーヴァダッタ(提婆達多)の悪例もあります。前号で紹介した『戦士経』での武士村の村長との対話からも、釈尊は世俗の共同体に巣食う迷信除去に慎重にならざるを得なかったことがわかります。長部5経『クータダンタ経』で、やはり大規模な動物供犠を準備していたクータダンタ・バラモンと対話された際には、結果としてバラモン釈尊に帰依して動物供犠を中止しています。これはバラモンから供犠のあり方について問われ、それに答えた結果です。エルサレムの神殿に乗り込んで屋台をひっくり返し、民衆の怨みを買ったイエスとはちょっと違いますね。インドの人々は釈尊の教えを間接的に耳にすることで、残酷な動物供犠は無益であり止めるべきだと知って、自ずと動物供犠に依存する社会のあり方を脱したのです。

 では、釈尊は理想の政治のあり方を直接的に説くことはしなかったのでしょうか? そうではありません。世界を統治する理想の王たる転輪王のエピソードを通して、簡潔に理想の政治を語っています。内容は次節で引用します。

 ここで問題提起したいのは、政治を行う主体、主権者とは誰かということです。古代インドにおいて「王=主権者」とはコーサラ国のパセーナディ王のような特定の専制君主、あるいはワッジー国のリッチャヴィー王族のような世襲議員のグループに限られていました。第七回で紹介した長部27『世起経 Aggaññasutta』では、世界に偸盗・非難・妄語・刑罰という不善の法が生じた後、刑罰を正しく執行する者を大衆のあいだから選んだことが王権の起源とされます。ですから、最初の王はマハーサンマタ(mahāsammata 大衆から選ばれたもの)と呼ばれたのです。つまり仏教では王権神授説ならぬ王権民授説を説きます。しかし現代の日本では、日本国憲法によって国民主権議会制民主主義がうたわれています。天皇日本国憲法第一条で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされています。あくまで主権者は国民です。国会議員は国民による選挙で数年おきに改選されます。その国会議員によって内閣が組織され、行政機関を指揮します。形骸化されているとはいえ、最高裁判所の判事も国民審査の対象となっています。国会議員世襲される「身分」ではなく、あくまで国民の代理人(代議士)なのです。ですから、現代の日本では、国民一人ひとりが小さな王、王族としての役割を担っていると言えるでしょう。であるならば、私たち仏教徒釈尊が王について語った教説から学ぶべきです。とりわけ、王の中の王である転輪王(cakkavattin)について学ぶことで、主権者としてのあるべき姿、仏教徒として希求すべき政治のあり方が明確になると思います。

転輪王の政治理念

 では、転輪王についてお釈迦様が詳しく説法された、長部26『転輪聖王獅子吼経 Cakkavattisīhanādasuttanta』を読んでみましょう。訳文はすべて片山一良先生『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇1』大蔵出版を参考にして適宜、手を加えています。

 お釈迦様がマガダ国のマートゥラーに住んでおられたときのこと。比丘たちを前にした「自灯明・法灯明」に関する説法のなかで、釈尊はおもむろに転輪聖王と呼ばれる理想的統治者が世界を統治していた時代の伝説を語り始めます。

 ダルハネーミ(堅固王、堅念王)という転輪聖王が君臨した時代、世界(インド)は武力によらず法(道徳)によって平和裏に統治されていました。世界は豊かに繁栄し、人間は八万歳もの長寿を謳歌し、人々の心は清らかで、殺人はおろかわずかな盗みすら存在しませんでした……。

 当時も王の位は世襲でしたが、転輪聖王としての資格は世襲ではありません。ダルハネーミは頭上に常に輝いていた「天の輪宝」の位置がずれたことを目撃し、自らの死期が近いことを悟りました。彼は王位を長子に譲ると、世俗の執着を断つため衣をまとって出家してしまいます。前王が出家して七日経つと、転輪聖王の証である「天の輪宝」は消え去りました。動揺した新王は、出家した先王(王仙人)のもとに赴き、理由を問います。先王は息子にこう諭しました。

「わが子よ、そなたは天の輪宝が消えていることに対して、不快になってはならぬ。また、不快なことを感受してはならぬ。

 なぜならば、わが子よ、天の輪宝はそなたの父祖の遺産ではないからである。

 さあ、わが子よ、そなたは聖なる転輪聖王の務めを果たすがよい。しかも、そなたが聖なる転輪聖王の務めを果たし、その日、十五日布薩に、頭を洗い清め、布薩戒をたもち、立派な高楼に上るならば、轂をそなえ、千の輻のある、外輪のある、あらゆる相に満ちた天の輪宝が現れる、という道理が存在するのだ」と。

  つまりこれは、王位は世襲できるけど、転輪聖王になるためには自分で努力しなければいけないという話です。それ以来、転輪聖王から王位を譲られた王族たちは、代々、先王から転輪聖王に相応しい統治のあり方を学びました。そして自らの努力の結果として、天の輪宝の下で世界を統治する転輪聖王になったのです。

 このくだりから私たちが教訓を得るとすれば、憲法国民主権が明記されているとしても、主権者としての不断の努力を怠らないこと、決して政治を人任せにせず、市民ならぬ志民としての意識を持ち続けることが必要だ、ということでしょう。民主主義の国に生まれたからといって、主権者たる自覚を欠いて漫然と暮らしていたら、天賦人権ならぬ「天の輪宝」が頭上から離れてしまうのです。

 続きです。先王の息子は「陛下、それでは、何が聖なる転輪王の務めでしょうか」と教えを請います。先王は答えます。

「それでは、わが子よ、そなたは、法(dhamma)にのみ基づき、法を尊敬し、法を尊重し、法を敬愛し、法を供養し、法を敬礼し、法幢者として(法を旗として)、法幡者として(法を標識として)、法増上者として(法を先導として)、法による守護・防護・保護を置くがよい。

 ①内部の人々、軍隊に、

 ②王族たちに、

 ③従者たちに、

 ④バラモン・資産家たちに、

 ⑤町の人々・地方の人々に、

 ⑥沙門・バラモンたちに、

 ⑦獣・鳥たちに、対してである。

 また、わが子よ、

 ⑧そなたの領土において、非法行為を起こしてはならぬ。

 また、わが子よ、

 ⑨そなたの領土において、貧困者たちに財を施すがよい。

 また、わが子よ、

 ⑩そなたの領土において、驕慢・放逸を離れ、忍辱・柔和を確立し、自己を一つに調御し、自己を一つに結合し、自己を一つに完成させる沙門・バラモンたちに、時に応じて、近づき、質問をするがよい。

 「尊者よ、善とは何か、不善とは何か」

 「有罪とは何か、無罪とは何か」

 「従うべきものとは何か、従うべきでないものとは何か」

 「何を行えば、私に長く不利益となり、苦となるのか」、あるいは

 「何を行えば、私に長く利益となり、楽となるのか」と。

 かれらに聞いて、不善なるものは除くがよい。善なるものはよく受けて行うがよい。

 わが子よ、これがその聖なる転輪王の務めである」と。

 要するに普遍的な法(dhamma、正義・道理)に立脚して、①~⑥その地位に関わりなく領民の生活を安堵すること。⑦領土に住む動物たちにも危害が加えられないようにすること。⑧王たる自らも恣に権力を振るうことなく法に従うこと。⑨貧困者への福祉によって生存権を保証すること(所得再配分の重視)。⑩賢者の教えを聴いて道徳を実践すること、です。これこそが政治に責任を持つ「主権者」の務めなのです。国民主権の社会においては、国民一人ひとりが実践すべき、また政府に送り込んだ代議士たちに実践させなければならない仕事です。

 先王(王仙人)の息子がこれらの聖なる転輪聖王の務めを果たし、その日、十五日布薩に、頭を洗い清め、布薩戒をたもち、立派な高楼に上ると、轂をそなえ、千の輻のある、外輪のある、あらゆる相に満ちた天の輪宝が現れました。息子は自らの努力で転輪王の資格を得たのです。

 転輪王となった王は座から立ち上がると、一方の肩に上衣を着け、左手に水差しを持ち、右手で輪宝に注ぎます(輪宝はつねに頭上にあるわけではないようですね……)。そして「尊き輪宝は進め。尊き輪宝は征服せよ」と呼びかけます。するとその輪宝は東方に進んだのです。この輪宝に従って、転輪王は四軍とともに進みます。輪宝が止まった地域(東方の他国領土)で転輪王が滞在していると、そこに東方にいる敵王たちが近づいてきて、服従を申し出るのです。これが南方、西方、北方でも繰り返されます。服従を申し出る四方の王たちに対して、転輪王は次のように教示します。

「生き物が殺されてはならぬ。

与えられないものが取られてはならぬ。

邪淫が行われてはならぬ。

嘘が語られてはならぬ。

酒(酔わせるもの)が飲まれてはならぬ。

食べているとおりに食べよ」

  転輪王は諸王に向かって五戒を護るべきことを説きます。「食べているとおりに食べよ(yathābhuttañca bhuñjathā)」とは、その地域の慣習に基づいて生活せよ、という意味です。五戒は普遍的に護られたほうがよい道徳ですが、それ以外は口出しせず、地方自治地域主権に任せるのです。簡素ながらも優れた政治哲学だと思います。内政においては法(dhamma)に基づいた十項目の政治方針を実践し、五戒の実現とすべての国の相互尊重を呼びかけることを外交方針とする。これがパーリ経典からもっとも簡潔に抽出できる仏教の政治理念すなわち「主権者」の行動原理となります。仏教徒が政治に関わる場合には、転輪王の教えを参照にすることが求められると思います。

政治・社会運動と怒り

 ここから、少しアトランダムに思索を進めてみます。

 政治・社会運動というものは「怒り」の表現とされることが多いです。何かに異議申立てをすることには、怒りが伴いがちです。おとなしい、社会に異議申立てをしない日本人の弊害を指摘する言説のなかで、「日本人はもっと怒るべきだ。怒らないから政治が腐敗するのだ」と指弾されることもあります。このように、怒りが奨励される政治・社会運動の世界に、「怒らないこと」をモットーとする仏教徒が参加することに違和感をおぼえる人は少なくないと思います。

 私は、日本人が怒らないことがいけないとか、もっと怒らなければいけない、などとは思いません。理不尽な出来事や不正と対峙するときの人間の心理的働きは貪・瞋・痴で分けるならば瞋(怒り)になるでしょう。問題から目を逸らしてボンヤリと微睡む痴(無知)や、ひたすら世界を美化して矛盾と向き合わない貪(欲)の態度に比べれば、世俗レベルでは健全な反応でしょう。しかし所詮は貪瞋痴なので、善か不善かといえば不善になります。

 怒りは生命の基本的な反応なので、「わかっちゃいるけど止められない」ものです。仏教で悪行為(十悪)として戒めるのは憤怒(vyāpāda)です。いきなり包丁を振り回して暴れるような、筋の通らない、破壊衝動の塊になったような怒りです。それは何としても止めるべきです。

 政治・社会運動も、怒りにかられて暴動を起こしたり、内ゲバを始めたりしたらお終いでしょう。もし何かの怒りが起きても、それに正当な根拠・理由があるかを、怒りの衝動を離れてチェックする理性が必要です。政治・社会運動に怒りが介在してしまうとしても、怒り自体に価値を入れ称揚することは、運動を自滅させる効果しか持たないと思います。

 ただし一般的に言われている「もっと怒るべき」というのは、翻訳すれば「もっと(社会の問題に)関心を持つべき」という心情の表現でしかないと思います。闇雲な怒りというわけではありません。ですから杓子定規に「怒りで運動をやってはダメだ」というのも、ピントがずれるでしょう。

 それでも、別に怒らなくても政治・社会運動はできますし、「怒っている人もいる」運動の渦中にあって、怒らないで淡々と役割を果たすこともできます。私自身も、東日本大震災以降は反原発運動、排外主義者の差別デモ(ヘイトスピーチ・デモ)に対するカウンター行動などに積極的に関わってきましたが、怒りを動機にしたことはありません。人間のみならず地球に住まう生命や環境にも多大な被害を与え、子々孫々にわたるまで放射性廃棄物という負債を生み出す原発をなくすこと、人間の尊厳を損ねる人種・民族差別に反対することは、ブッダの教えに照らして完全に正しい行動だと思います。主権者たる自覚があるならば、何の葛藤もなく自然に行動できるくらい明白な善です。まだ心清らかになっていない凡夫であっても、「怒らないこと」の実践によって、善なる目的を不善で汚すことなく、息の長い政治・社会運動を法(dhamma)の実践として続けていけるのだと思っています。

仏教と社会改革

 お釈迦様は在世のおり、犠牲祭祀などバラモン教の「習慣」を激しく非難しました。生まれによる差別を正当化するバラモンに対しては、現実のバラモンの所業を犬畜生にも劣るとまで痛罵して、相手を沈黙させました。社会習慣や制度をあるがままに認めるという態度は仏教的にあり得ない。日本仏教の僧侶もまた、王や貴族に主権者の道徳を植えつけ、神社で行われてきた生贄儀式を止めさせたり、公的な福祉事業を行ったり、出身階級を問わない学校教育を企画したりと、法(dhamma)に基づいた社会変革を実践してきました。

 先にも述べましたが、五戒などの仏教道徳と社会習慣が対立する場合は道徳が優先になります。仏教道徳が社会にも反映されるように、できる範囲で働きかけることが必要です。現代の日本は主権在民なので、一般市民も仏教徒であれば、政治参画する局面では仏教価値に即して行動すべきです。古代の専制国家と違い、現代は政治参加も市民の仕事だからです。

 我々市民がお釈迦様の教えを指針として行動するならば、当然、死刑制度や戦争や差別や人権抑圧に対して、反対の態度表明をしなければならないだろう、ということです。

原発について、ひとつ蛇足的に論点を加えます。第五章で述べましたが、菩薩は長い輪廻のなかで五戒を犯すことがあっても、妄語戒だけは必死に守るとされています。安全神話という虚構に寄りかかり、科学とは名ばかりの虚偽と隠蔽によって成り立っていた原発核燃料サイクル事業は、人々が菩薩としての自覚をもって生きることを構造的に拒むシステムと言えるでしょう。パーリ聖典に依る初期仏教の実践者のみならず、菩薩道を歩む大乗仏教徒も、脱原発に向けて声をあげる道理があると思います。原発は通仏教的に「ならぬもの」なのです。

 問題になるのは、人民を抑圧する政治体制に対して、仏教徒が仏教の理念を掲げて起こす革命は是か否かということです。結論だけ述べれば、非暴力を貫き体制側が革命派の「徳」に屈服する形を目指せば是と思います。権力を外部から牽制するツールが発展した現代なら不可能ではありません。輪宝を先頭に一切戦うことなく四海を服従させた転輪王の行軍にならって、必要とあらば、普遍的な正義にのっとって、非暴力を貫くデモによって政治に変革を迫ることは、主権者たる現代人に相応しいのではないかと思います。

 ただ、それは「仏教徒ならば」という前提です。もっと限定すれば、自覚的に仏教徒であるならば、ですね。「お前は某寺の檀家だからこうすべき」という話ではありません。選挙の投票にはじまり様々な政治参加をする場合、仏教徒は当然、釈尊が在家市民や為政者に説いた教えを指針に行動することになるはずです。本稿で紹介した教説はほんの一部ですが、仏教徒の政治との関わりを考える上で大きな幹になると思います。

 ただし出家比丘はサンガの律に従って行動しなければいけません。政治の話などは釈尊が禁じているので、政治参加は抑制的にならざるを得ない。スリランカで普通になっている比丘の国会議員などは逸脱が過ぎるでしょう。また、比丘サンガの出家者でなくても修行道場に暮らすなどして「修行中心」の生活を送る人は、政治に一切関わらない選択もあり得ると思います。転輪王が義務を果たした上で出家して王仙人になったように、世俗から離れて人々に道徳を教える仕事にまわる選択はいつでもあり得ます。そこは分別して語らないと混乱します。

 繰り返しますが、現代では主権在民なので、一人ひとりが「王」の仕事を担わなければいけません。仏教徒にとって理想の王は転輪王なので、転輪王の統治に学ぶことが、現代仏教徒の市民活動の基礎となるべきです。

 そろそろ締めくくりましょう。

 生命が不幸になる行為を悪、幸福になる行為を善とするなら、善悪は歴然とあります。曖昧中途半端な価値相対主義が入り込む余地はありません。貪瞋痴を増す行為が悪、貪瞋痴を制し滅する行為が善です。他の生命との関係でいうならば、生命を害する行為が悪、生命を慈しむ行為が善です。生命は貪瞋痴で生きていますから、いつも「正義が勝つ」筋書きなどあり得ないことです。仏典のノリは進歩史観というよりは下降史観です。それでも、人たるもの弛まず善を目指すべきです。私たちは「よいことをするためには ためらってはならない」(ダンマパダ一一六偈)のです。仏教徒が政治・社会運動に関わる心構えはこんなところでしょうか?

 仏教の修行と政治・社会運動は対極のようでいて、似ている点もあります。人の心も社会のあり方も、いくら必死に頑張っても少しずつしか前進しません。かといって諦めて何もしなければ、つるべ落としのように堕落してしまいます。だから仏道修行も政治・社会運動も、理想・目的の実現に向けて、腐らず根気よく取り組むしかないのです。

Pamādaṃ bhayato disvā

Appamādañca khemato

Bhāvethaṭṭhaṅgikaṃ maggaṃ

Esā buddhānusāsanī(Apadāna 1-80)

 

放逸(気づき無き)を恐怖と見て

不放逸(気づき絶やさぬ)を安らぎとして

八聖道を進歩せよ

これ佛陀の教えなり(アパダーナ 一の八〇)

日本「再仏教化」宣言!

日本「再仏教化」宣言!

 
日本「再仏教化」宣言!

日本「再仏教化」宣言!

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~