幸福の科学系「ザ・リバティWeb」が『日本「再仏教化」宣言!』を名指しで批判

仏陀再誕』を否定するものは仏教ではない???

日本「再仏教化」宣言!

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 ↑電子書籍版も出ました!

日本「再仏教化」宣言!

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 おかげさまで好評をいただいている新刊『日本「再仏教化」宣言!』3,4章に掲載した「仏陀再誕はあり得ない」論に対して、幸福の科学系のメディア「ザ・リバティWeb」が真っ向から批判する長文記事を掲載しました。

仏陀再誕」を否定する小乗仏教(上座部仏教)は間違いである

http://the-liberty.com/article.php?item_id=7208

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 そもそも『日本「再仏教化」宣言!』3,4章に掲載した「仏陀再誕はあり得ない」論は、幸福の科学総裁大川隆法氏が「再誕の仏陀」を自称していることに対する批判として展開されているので、幸福の科学系のメディアから反論が来ることは予想していました。では、記事の内容はどのようなものでしょうか? 

いきなりタイ社会を誹謗中傷&ゲイ差別攻撃

反政府デモが大規模化するなど、政治的な混乱が続いているタイ。政治の動向が注目されるにつれて、エイズ患者の増加、麻薬の蔓延、同性愛の問題など、タイの社会問題もクローズアップされるようになっているが、これらの問題の根底には同国が奉じる上座部(小乗)仏教が大きく関係している。

しょっぱなから、ポカーンとするような内容です。東南アジア地域大国として発展している伝統あるタイ王国に対して、『幸福の科学』の事実上の機関誌でまるで暗黒社会であるかのように描写し、タイ王国の問題には上座部仏教に関係していると、根拠不明の誹謗中傷をかましています。

さらに酷いのは、同性愛の"問題"という言葉。大川隆法もとい幸福の科学は、同性愛が「エイズ患者の増加、麻薬の蔓延」などと並ぶ「問題」だと言明しています。要するに、エイズや麻薬と同じく、同性愛は克服・撲滅すべき問題としているのです。いまどき、ここまであからさまなゲイ差別をする宗教団体があるというのは驚きです。

このあと、上座部仏教は戒律重視だが、戒律を守ればいいというように形骸化しており、特に一時出家制度があるタイでは云々かんうんと、上座部仏教圏の文化について無知まるだしの御託を並べています。ちょっとでも同地域について関心のある人であれば、失笑してしまうでしょう。

仏教徒なら「仏陀再誕」を忌み嫌うのは当たり前

形骸化した現在の上座部仏教は、釈尊の本来の考えからは離れているようだ。そのことを象徴的に示しているのが「仏陀は決して生まれ変わらない」という考え、「仏陀再誕」を否定する思想だ。まるで仏陀を忌み嫌い、敬遠するかのようなこの考え方は、仏教の解釈として本当に正しいのか。

はいはい来ました。そんなもの、ブッダは「解脱」してるんだから当たり前でしょうに。わけのわからない混交教義をふりかざす霊言宗教家が仏陀を僭称することを忌み嫌うのは、仏教徒なら当然至極の反応だと思います。

”「仏陀は再誕しない」は極めて不自然な思想”という理屈

続いて、ザ・リバティWebは「仏陀は再誕しない」は極めて不自然な思想だという理屈を展開します。初級レベルの仏教学概説書にあるような経典成立史の知識を散りばめているので、うっかり目くらましされそうになるくだりですが、ここに幸福の科学もとい大川隆法の「仏陀観」が分かりやすく現れています。

原始仏典においても、釈尊は数多くの奇跡を起こし、常人を超えた威神力を示している。その釈尊が「仏陀となった」という理由で、他の衆生でもしている転生輪廻ができなくなるというのは極めて不自然な考え方ではないだろうか。

 「他の衆生でもしてる輪廻転生」失礼ながら、この一言には腹を抱えて笑ってしまいました。この理屈ならば、仏陀が"他の衆生でもしてる"罪も犯せないのはおかしいということになります。具体的には、仏陀が殺生できないのもおかしいし、他の衆生でもしてる窃盗・邪淫・虚言・飲酒を仏陀ができないのもおかしいということになりますよね? この一行からも「再誕の仏陀」を名乗る宗教家およびその信徒がイメージしている「仏陀」が如何なる存在か、簡単にプロファイリングができます。続き。

素朴な宗教的感情からしても、やはり「仏陀となったならば、強制的な迷いの転生輪廻からは解放される。しかし、衆生救済のため、自らの意志によって再誕することはありえる」と解釈するのが筋だろう。

これも決定的な一文です。仏陀を「素朴な宗教感情=貪瞋痴」に合わせようと無茶な理屈をこねて珍妙な結論に達しているのです。幸福の科学における「仏陀」とは貪瞋痴に覆われた凡夫仏教用語を捏ね繰り回して捏造した妄想の産物に過ぎません。拙著の文脈に引き寄せるならば、「仏教をブヨブヨした俗情の塊を「飾る」アクセサリーとして用いる」(『日本「再仏教化」宣言!』まえがき)という言説の戯画化した現れと言ってよいだろうと思います。

仏陀再誕」は貪瞋痴の撒き餌

また、タイ仏教をはじめ、上座部仏教では、輪廻から解脱した釈尊について「涅槃に入った」と言うばかりで、入滅後の釈尊が具体的にどうなったのかについて明確に説明できていないようだ。甚だしきにいたっては「釈尊は消滅した」と考える人たちさえいる。

そんな雑な議論してるわけないでしょうが……。ほんとに知りたいと思ってるなら、森章司先生の論文「死後・輪廻はあるか---「無記」「十二縁起」「無我」の再考---」( http://www.sakya-muni.jp/fieldwork/3-122/『東洋学論叢』第30号東洋大学文学部2005年3月)とか、読めばいいと思います。ブッダ(如来)が死後どこへゆくのか・消滅するのかなどの議論は初期経典で「十無記」とされるカテゴリーに入ります。これは形而上学的な問題への「判断停止」ではありません。貪瞋痴に覆われた衆生が固執する我説・実在論を前提とした十無記の問いの設定に引っかかると、生存の束縛から抜けられなくなる(オチのない探求に嵌る)ことへの警告なのです。パーリ中部25餌食経では、無記の問いは鹿を狙う猟師の撒き餌に例えられます。釈尊の精妙な教えを俗情で汚し、「再誕の仏陀」を吹聴する幸福の科学の教えは、まさに輪廻の苦に人々を束縛し続ける「撒き餌」のようなものです。まぁ、そういう議論をするのは好き好きとして……

しかし、消滅したり消息不明になったりするのが仏教の目標なのだろうか。これが釈尊の説いた教えだとしたら、このような宗教が多くの人々に支持され、世界各地に広がったとは社会学的にも考えにくい。現代の上座部仏教は、初期の仏教を正しく継承していると主張しているが、釈尊の真意を大きく曲解している部分があると考えざるをえない。

 広まっとるがなw 歴史的には紆余曲折があったにせよ、現在、南アジアのスリランカ東南アジア内陸部のタイ・ミャンマーラオスカンボジアといった国々で上座部仏教テーラワーダ仏教)は支配的な宗教となっており、19世紀以降は日本を含めて世界中に教線を伸ばしています。いくら幸福の科学が”公称”1100万人の信者を抱えていると吹聴したところで、足元にも及ばない数です。「仏陀再誕」など考えもしないテーラワーダ仏教が世界各地に広まっている事実を無視して、「これが釈尊の説いた教えだとしたら、このような宗教が多くの人々に支持され、世界各地に広がったとは社会学的にも考えにくい」などと、噴飯ものではないでしょうか。

ここから先は、例によって「パーリ仏典は仏陀の直説そのままではない」云々という仏教学の知識をコピペした理屈が並べられています。こういうためにする「相対化」言説も、仏教の本筋を誤魔化す目くらましになりがちなところです。拙著『日本「再仏教化」宣言!』第六章 初期仏教への認知の歪みを正す『小乗仏教』批判の常識 (2)において、きっちり論じていますので、そちらをお読みいただきたいと思います。

仏陀再誕」が無いからこそ仏教は偉大

 次に「宗教によく見られる「聖者の再誕」という思想」として、大乗仏教へのすり寄りを図っています。初期仏教の立場から「仏陀再誕」があり得ないこと、成り立たないことは拙著でもきっちり論じたところですが、大乗仏教サイドからはどうなのでしょうか? 私の管轄ではないので深追いはしないことにしたいと思います。日本仏教界では大川隆法の「仏陀再誕」論を黙認し続けるのでしょうか? ひいては酒井阿闍梨が地獄に堕ちただの、中村元博士が地獄に堕ちただのいう「霊言」インタビューを黙って放置し続けるのでしょうか? 仏祖のおかげで自分たちがあることを忘れて、謗法に対してただ指をくわえているのでしょうか? それは日本大乗仏教および印度学仏教学に携わる人々の問題だと思います。ただ一か所、

 もし仏教に、「出家修行者のお手本」という程度の仏陀観、「解脱して消息不明になる」という仏陀観しかなかったとしたら、仏教が世界中のあらゆる社会階層に浸透することはなかっただろう。やはり、大乗仏教が説くような「大宇宙を統べる理法としての仏陀」「人々を救う救済仏」という思想を打ち出したからこそ、キリスト教イスラム教の「創造神」「造物主」に対抗しうるものとなり、仏教は世界宗教となったのだ。

 これには明確に反論しておきたいと思います。有名なアショーカ王のミッションによって仏教が世界宗教として飛躍した際には、「大宇宙を統べる理法としての仏陀」「人々を救う救済仏」などという俗情におもねった教えは存在しませんでした。それらはインドにおいて仏教が「腐っていく」過程で現れた教義です。超越的な救済者という存在無しに世界宗教になったことが仏教の大きな特色であり、偉大さの現れなのです。「仏陀再誕」を主張することは、仏教の偉大さを貶める行為に他なりません。

出た!悪魔よばわり

最後の見出しは、「「仏陀再誕」を否定して得をするのは「悪魔」」です。言論での批判に対して悪魔呼ばわりとは、カルト宗教のような言いぐさだと思います。もっとも、『大品般若経』魔事品などでは、人々が大乗経典を捨てて初期経典に戻ることを「魔事(悪魔の仕業)」と憎み恐れていましたから、その伝統を踏んだのかもしれませんが、内容は酷いです。

釈尊はどこか遠くへ去った」「釈尊は消滅した」という思想と、タイ仏教などが釈尊の真意から離れて形骸化し、モラル崩壊をもたらしている事実とは関係があるようにも思える。釈尊がすでに僧侶たちを見守っていないと考えるなら、2500年前の教えや戒律が形骸化するのは当然である。

科学的な根拠も無く、当て推量でタイ国の仏教を誹謗中傷する幸福の科学クォリティには呆れます。まさに「日本人として恥ずかしい」レベルです。

やっぱり『仏陀再誕』のない明るい世界

今回、『日本「再仏教化」宣言!』を書いた佐藤氏にしても、「『仏陀再誕』のない明るい世界」などという見出しを使っているほか、「仏陀は再誕しませんが、私たちは別にさびしくないんです」とも述べている。なぜ、「仏陀再誕」がないのが「明るい世界」なのか。佐藤氏の言う「明るい世界」とは、一体どういう世界なのか。「仏陀のいない、悪魔にとってのパラダイス」なのだろうか。

霊言宗教家の妄言を誰も相手にしない程度に人々が理性的な世界ならば、その社会は明るく健全であるに決まっています。

仏陀が再誕するなら、かつて自らが説いた教えに制約されることなく現代人のために新しい法を説くはずだ。ましてや、後世に編纂されたパーリ仏典や仏教教学などに制限されることもありえない。パーリ仏典を根拠に、仏陀再誕を否定することの無意味さに気づくべきだろう。

過去仏も未来仏も釈迦牟尼仏と同様の教えを説くことはパーリ経典であれ漢訳阿含であれ仏教経典の定石です。再誕した仏陀釈尊とかけ離れた教えを説くというならば、それは「再誕の仏陀と称するものは決して覚者=仏陀ではない」ということの証拠に過ぎません。

最後に(口直しに)拙著から重要な個所を引用したいと思います。

仏教が廃れたことで、仏陀という言葉の定義さえ一般人が知らない不幸な状況に至ったことで、『仏陀再誕』というトンデモ言説が、「仏教国」であるはずの日本に蔓延ってしまったのです。ある意味、『仏陀再誕』は日本の不幸の象徴です。この不幸を克服して、「仏陀が再誕しない理性的な社会」を築くことが、心身ともに参っちゃっている日本を復興させる第一歩かもしれませんよ。(『日本「再仏教化」宣言!』111p)

 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

日本「再仏教化」宣言!

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 っつーわけで会員数1100万人を誇る巨大新興宗教教団「幸福の科学」を敵に回した? 問題作『日本「再仏教化」宣言!』読んでつかーさい (^^♪ #仏陀再誕あるかボケ

 

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