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『日本「再仏教化」宣言!』まえがき&目次

新刊『日本「再仏教化」宣言!』のまえがき&目次を公開いたします。

明日(12月27日)が発売日なのですが、Amazonなどではすでに販売が始まっています。一部リアル書店でも入手できるようです。購入を検討されている方は、以下のテキストを参考にして頂ければ幸いです。

日本「再仏教化」宣言!

日本「再仏教化」宣言!

 

まえがき

『日本「再仏教化」宣言』*1というタイトルを見て、「なにそれ?」と違和感を抱いた方も少なくないと思います。そもそも日本は千五百年に及ぶ長い歴史を誇る仏教国です。いまさら何を「再仏教化」なのでしょうか?

 まさかと思われるかもしれませんが、いま私たちが生きている日本は、百数十年にもわたって「脱仏教化」されてきた社会なのです。現在の日本国の骨格をつくった明治維新は、神仏分離廃仏毀釈という仏教排斥政策を伴っていました。江戸時代に「国教」としての地位を得ていた仏教はその地位を追われ、一挙に社会の周縁部へと追いやられたのです(その経緯については拙著『大アジア思想活劇』で概説しました)。日本の近代化とは、同時に日本社会の「脱仏教化」が強力に推し進められる過程でもありました。その影響は寺院の仏像を破壊したり僧侶に暴行を加えたりという突発的な熱狂にとどまらず、明治維新国家が破綻した第二次世界大戦後も長く残っていました。初期経典の翻訳『阿含経典』(筑摩書房)シリーズでも知られる仏教学者の増谷文雄は、一九六六年の講演でこう述べています。

 廃仏毀釈は慶応四年三月に始まり、数年にして終わったものではけっしてなく、それはまだ終わっていない。それ以来今日までちょうど百年になるが、なお終わっていない。(中略)

 この前もある文学者と話しているうちについその話が出て、向こうのほうから廃仏毀釈はまだつづいているなんていう。それは文学の世界においてもそうだという。例えばいろんなところで日本古典文学大系とか古典文学全集などというものがでているが、そのなかには仏教と名のつくものはぜんぶ排除されています。よくよく考えてみると、ある時期以後の日本文学は仏教の影響をほかにしてはほとんど考えられないようなものになっている。徒然草はいかにしてできたか。正法眼蔵随聞記がなかったならばあの形式はできなかったと教えられた。それであるのに今昔物語は文学であるけれども、日本霊異記は文学ではないことになっている。どこがちがうのか。そういうぐあいにして仏教は文学のなかからほうりだされてしまっています。ところが、その文学者は、「おれがいままでの廃仏毀釈に一つだけピリオドを打った。それは古典文学大系のなかに仏教物をはじめて入れたことである」といっていました。*2

 むろん増谷が憂いていた一九六〇年代後半に比べれば、二十一世紀の現代には「文学の世界における廃仏毀釈の残滓し」もいよいよ薄らいでいるでしょう。ただ数年で破棄された政策とは別に、現代まで日本文化を覆ってきた「廃仏毀釈」に由来する仏教忌避的な雰囲気の実像について、対象化して分析する作業は充分になされているとは言えないと思います。そして近代の日本仏教はこの「脱仏教化」を前提として、脱仏教化した社会でも生存可能な「仏教」のあり方を模索してきたのです。

 このような近代日本仏教の生存戦略は、ある意味で仏教者・仏教研究者が「廃仏毀釈の心性」を内面化する過程でもありました。本書の第一部「日本を再仏教化する」で論じますが、近代における日本人の仏教観は、業や輪廻や解脱といった仏教の基本的な概念を放棄し、仏教が持つ出世間性・教えの体系性を自ら掘り崩す方向に変化していきました。仏教よりも俗世間の価値観を優先する、俗世間の都合に合わせて仏教のほうを改変するという精神的隷属のスパイラルに、仏教者や仏教研究者自身がハマり込んでしまったのです。その帰結として、日本の仏教言説の中では、仏教の開祖である釈迦牟尼ブッダは「たまたま古代に生まれた現代人」のような扱いを受け、物好きな知識人の玩弄物とされるに到りました。この傾向は近年の日本におけるテーラワーダ仏教の普及までは、何の歯止めもなく進行していました。現在も決してなくなってはいません。

 このような状況を打開するためには、近代日本仏教が選んだ生存戦略の自縄自縛を解き放つ、新たなる「再仏教化」が必要ではないか、というのが私の見立てです。ここで言う「再仏教化」とは、仏教を私たちの欲望に奉仕させることではありません。ブッダの教えを私たちの背骨として、規準として生きるということです。仏教をブヨブヨした俗情の塊を「飾る」アクセサリーとして用いる*3のではなく、あるいは文化ナショナリズムに淫する道具とすることなく、「日本人が広大な世界へと自らを“開いてゆく”窓、普遍への回路」*4として再インストールしてはどうか、という呼びかけです。

 これは単純な前近代懐古とも違います。過ぎた時代は戻ってきません。日本のみならず、アジア仏教圏はそれぞれのやり方で近代に対応してきたわけです。最近日本でも知られるようになったテーラワーダ仏教圏の国々もまた、ヨーロッパ列強による植民地支配やその後の東西冷戦に巻き込まれて、あるいは日本よりも苛烈な「近代との対決」を強いられました。しかし、それらの地域の仏教は日本のそれよりも元気に生きて、社会の中で大きな役割を果たしているように見えます。日本仏教が行き詰まった状態にあるならば、他国で守られてきた仏教の伝統を大胆に導入してもいいわけです。これからの日本仏教にとって大切なのは、うじうじと答えの出ない近代化への「反省」や自己憐憫、あるいは「日本仏教の特殊性」への引きこもりなどではなく、それぞれの形で近代を迎えたアジア諸国をはじめとする「仏教世界」の歩みに学びながら、解脱学たる仏教の背骨を鍛えてゆくことであると思うのです。

 では、日本「再仏教化」において、私たちが「背骨」とすべき教えは何なのでしょうか? 親鸞ルネサンス安冨歩)など、日本仏教の祖師を再評価する言説も相変わらず盛んではありますが、私はやはり、パーリ聖典に記録されテーラワーダ仏教によって守られてきたお釈迦様の教え=初期仏教の教えこそ規準とすべきだと思っています。関係者ゆえの手前味噌と笑われるかもしれませんが、大乗相応の地と呼ばれた日本でも、明治以降、パーリ聖典の文献研究が旺盛に続けられてきたことを思い出してほしいのです。その百数十年の営々たる蓄積があってこそ、近年のアルボムッレ・スマナサーラ長老の活躍にみられるように、生きた日本語で初期仏教を体系的に学び実践することも可能になっているのです。書籍やインターネットといった情報源をもとにして、あるいは国内外のテーラワーダ仏教サンガを媒介として、初期仏教を人生の指針として生きている日本人は増えてきています。これは根無し草のエスニック趣味にとどまらず、近代日本仏教の資産が正しく活用された結果として現れた現象なのです。*5

 日本という国において日本語で流通している仏教という意味では、初期仏教はすでに日本仏教の一部となっています。また初期仏教の日本東漸の過程で、日本人の仏教観は確実に上書きされ、塗り替えられてもいるのです。この流れを社会思想のレベルまで拡張していくことは、結果として日本社会をより風通しのよい、民主的で自由な社会に変えていくことにつながると思います。また、そこまで進んでこそ日本「再仏教化」が達成されるとも思うのです。

 本書の主要部分は、『サンガジャパン』誌に連載した「パーリ三蔵読破への道」をもとに加筆修正を加えたものです。日本「再仏教化」というテーマに直結する論考は第一部「日本を再仏教化する」(一章から十章)にまとめました。第二部(十一章から十五章)ではパーリ三蔵の雑多な魅力の一端を読み物として紹介しました。第三部では、ブックガイドの形を借りて、ここ十年ほどで激変した日本の仏教言説とその行方について考察しました。

 執筆にあたっては、三つのことを前提としています。①お釈迦様は無上正覚に達したブッダであること。②正覚者たるブッダの教えはパーリ三蔵によりおおむね正しく後世に伝えられたこと。③パーリ三蔵は日本の仏教学者によっておおむね正しく翻訳されていること。この三つの前提を踏まえた上で、あとは自分の理解能力の範囲で、パーリ経典を読みながら考察したことを記しました。言うまでもありませんが、著者の理解や解釈には間違いや杜撰な点も少なくないと思います。忌憚なくご批判をいただければ幸いです。

 本書には各方面に喧嘩かを売る内容が含まれるので、謝辞の範囲を広げてご迷惑をかけることは控えたいと思います。しかし本作りで直接お世話になった方には御礼を言わせてください。連載中は、編集者の星飛雄馬さんとの対話を通じて多くのヒントをいただきました。単行本化にあたってはサンガ編集部の佐藤由樹さんにお世話になりました。心より感謝いたします。本書は、前作『大アジア思想活劇』で素描した日本とアジアを結ぶ近代仏教史の顛末を見据えて、自分にできる範囲で試みた、その「続き」の記録です。廃仏毀釈の残滓を乗り越えて、仏教を背骨にした日本人の新しい歴史を築く一助となればと願っています。

目次

第一部 日本を「再仏教化」する

◆I 初期仏教から見た震災と慰霊

  • 第一章 震災は「天罰」なのか? ――『大般涅槃経』から読み解く初期仏教の「地震」論
  • 第二章 初期仏教から見た震災と慰霊 ――日本仏教「再仏教化」への提言

◆II 『仏陀再誕』のない明るい世界

  • 第三章 弥勒(マイトレーヤ)を待ちわびて――仏陀再誕はあり得ない 1
  • 第四章 新興宗教からマンガまでを貫く心性とその出離――仏陀再誕はあり得ない 2

◆III 仏教言説の認知の歪み

  • 第五章 必ずや名を正さんか――『小乗仏教』批判の常識
  • 第六章 初期仏教への認知の歪みを正す――『小乗仏教』批判の常識 2

◆IV 菩薩仏教という魅惑の「空洞」

◆V 初期仏教と社会

  • 第九章 『セデック・バレ』と『戦士経』――「首狩り宗教」から魂を解き放つ
  • 第十章 「主権者」は誰か?――仏教徒の政治参加を考える

第二部 パーリ三蔵読破への道

  • 第十一章 パーリ三蔵読破への道――パーリ経典の全体像を知る
  • 第十二章 仏弟子たちのダメダメ事件簿――知られざる律蔵の世界 1
  • 第十三章 律蔵に描かれたブッダのサクセスストーリー――知られざる律蔵の世界 2
  • 第十四章 仏母の死――ゴータミー長老尼の死をうたいあげるアパダーナ(譬喩)
  • 第十五章 増支部経典を読んでみる――指折り数えて真理を学ぶ

第三部 ブックガイド:「仏壇」に吹き込んだ新しい風

  • 第十六章 たかが仏教、されど仏教――日本人の思考のルーツを旅する八冊
  • 第十七章 「仏壇」に吹き込んだ新しい風――日本仏教に「原点回帰」を促すブックガイド
  • 第十八章 ウパーシカー仏教の誕生 ――在家女性信者のこれから

■エピローグ ブッダとの縁を再び結ぶ

  • 第十九章 山形での報恩講で話したこと「お釈迦様の念仏、私たちの念仏」

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

*1:「再仏教化」という言葉は、「再魔術化」(re-enchantment)という単語からの思いつきです。この語はマックス・ウェーバーが用いた「脱魔術化」(Entzauberung / disenchntment)という概念を受けたもので、モダニズムに対するポストモダニズムの同義語としても使われるようです。末木文美士『現代仏教論』(新潮新書、二〇一二年)第一章では「再魔術化」の概念を用いた議論が展開されています。

*2:雑誌『在家佛教』(在家佛教協会)二〇〇九年一月号に再録された増谷文雄の講演録(初出:同誌一九六六年一〇月号)「日本人の宗教心」

*3:好サンプルとして、最近刊行された橋爪大三郎大澤真幸の共著『ゆかいな仏教』(サンガ新書、二〇一三年)が挙げられると思います。「ゴータマ・ブッダが、輪廻や解脱をまともに信じていたという証拠はどこにもない。」(七四頁)「ゴータマ・ブッダの教えをひと言で言えば、「勇気をもって、人間として正しく生きていきましょう」。ベタですけれど、仏教の主張はこうだと思うのです。」(七六頁)などと語る橋爪氏に対して、大澤氏はこう応じます。「橋爪さんの解釈は、魅力的ですね。ゴータマの思想の解釈として正しいかどうかとか、仏教思想の解釈として正しいかということとは独立に、橋爪さんが今の解釈の中に示されている思想は、生に対して肯定的で、とてもすてきだと思いました。」(八二頁)。「仏教思想の解釈として正しいか」云々よりも、「生に対して肯定的」であることが賞賛される。これこそ、日本において仏教がどこように消費されているかを端的に示す「ゆかいな」やりとりだと思います。

*4:拙著『大アジア思想活劇』(サンガ、二〇〇八年)序文より

*5:矢野秀武氏は、『グローバル化するアジア系宗教 経営とマーケティング』(中牧弘允、ウェンディ・スミス[編]東方出版、二〇一二年)第8章「タイ上座仏教の日本布教―タンマガーイ寺院についての経営戦略分析」の中で、明治以降の日本では釈迦牟尼ブッダの教えにまで遡る「原始仏教」について、学術面だけでなく信仰面でも一定の受容が生み出されたが、信仰面について原始仏教(釈尊の教え)を基盤とした寺院や僧侶はほとんど(まったく)存在せず、需要が満たされない状況が続いてきたことを指摘しています。その上で、「つまり、仏陀の教えには興味があるが、既存の日本仏教にはコミットしたくないという人々が少なからずいるということである。スマナサーラ長老を中心とする日本テーラワーダ仏教協会のドメイン戦略は、この点に即したものであったと言えよう」と述べています。