山形での報恩講で話したこと「お釈迦様の念仏、私たちの念仏」

2011年11月13日、懇意にさせていただいている山形県の真宗寺院で「報恩講」の講演をしました。その内容(草稿に当日の概要を加筆)をシェアします。

仏教旗 90×150cm

仏教旗 90×150cm

仏随念と念仏

本日は親鸞聖人七五〇年大遠忌という大切な年に●●寺の報恩講にお招き頂いたことを、●●寺の皆様、ご門徒の皆様に心より御礼申し上げます。
私はテーラワーダ仏教というインドからスリランカ東南アジアに伝えられた仏教を学んでいます。今日は浄土真宗で大切にされている「念仏」という言葉について、私が勉強してきたことからお話したいと思います。浄土真宗の教えについて詳しくないのでトンチンカンなことを言ってしまうかもしれませんが、ご寛恕ください。 
念仏とは、2600年前のお釈迦様の時代からあった仏教用語です。 
インドの言葉で、Buddhānussati (ブッダーヌッサティ)・仏隨念(ぶつずいねん)と言います。 
Buddha(ブッダ、仏)とAnussati(随念)に分かれます。AnussatiはSati(サティ)という言葉からできた熟語です。Sati(サティ)・念 は、「気づく、注意する、心にとめる、憶えておく」といった意味になります。 
単独でSati(サティ)・念という場合は、「気づく、注意する」の意味が前に出ます。八正道の「正念」の意味もそれです。具体的には「気づきの冥想」「ヴィパッサナー冥想」です。いま・この瞬間の自分に気づくという修行です。 
Anussati(アヌッサティ)・隨念という場合は、「心にとめる、憶えておく」という意味が強くなります。仏法僧の徳を念ずる 仏法僧のことを心において忘れないことです。

仏道の基礎

『旗先経』(パーリ相応部)という経典があります。森のなかで修行する僧たちの心が恐怖に覆われて、身の毛のよだつ思いにとらわれ、修行することに挫けてしまいそうな時、仏法僧を念ずることで、心を奮い立たせるのだ、とお釈迦様は、がアドバイスします。「阿修羅との戦争で神々がひるみそうになった時、神々の王である帝釈天の旗を仰いで勇気を奮い立たせるように」という例えが出てきます。 
修行とは煩悩との戦いです。その戦いを誰かが代わりにしてくれる、ということはあり得ないのです。仏・法・僧を念じて気持ちを奮い立たせて、それから実際に戦うのは自分です。 
他のパーリ経典では、仏・法・僧・戒を念ずる、ということも説かれます 
「法を見る者は私を見る」とお釈迦様はおっしゃっています。私たちは教えを通してブッダと会うのです。ですから、念法とは、実は念仏(ブッダを思い出すこと)です。 
僧とはブッダの教えを実践してきた人々です。仏教の真理を身をもって体験して、自らも覚った方々です。ブッダの教えでブッダになった方々のことを念じるのだから、これも念仏です。 
戒とは心清らかにするためのブッダの戒め。つまり、ブッダの説かれた修行方法・修行科目のことです。これを心に置いて思い出す。ブッダの教えが私たちの先生、つまりブッダですから、これも念仏なのです。 
仏・法・僧・戒を念ずる、という四つの項目をギューッとまとめれば、「念仏」(ブッダを思い出すこと、ブッダとブッダの教えを心に置いて生きること)という一項目に極まるのです。
あらゆる仏道修行はこの広い意味の「念仏」を基礎にして実践するものです。ですから念仏道場であるこのお寺は、すべての仏道の道場ということになります。
お釈迦様が説かれたあらゆる善行為(法)を学ぶことも「念仏」なのです。仏教を学んでいつも思い出すことで、勇気が出てきます。心が明るくなるんです。やる気が湧いてくるんです。

南無阿弥陀仏の現れ

南無阿弥陀仏」という念仏がどのように現れたか、ということについても述べたいと思います。
「千年続くはずの正法が五百年で廃れることになる。」これはお釈迦様が養母ゴータミー夫人の懇願を受けて、比丘尼出家をしぶしぶ認めたとき、「やれやれ、やられてしまった(女性には敵わないな)」という気持ちで漏らした言葉です。 
実際に釈尊がお亡くなりになり、偉大なるブッダの記憶・実在感が薄れると共に、この言葉が拡大解釈されるようになりました。最近も、大臣の方がちょっとした一言で職を失うことが相次ぎました。偉い人というのはうかつに軽口もたたけないんですね。ましてやお釈迦様ともなると、ちょっとした冗談やぐちさえも、どんな誤解のもとになるか分からない。とにかく、「正法が五百年で廃れる」という言葉は、やがてこの世界から仏教が消えてしまう、という「末法思想」にまでエスカレートしたのです。
そこで大乗経典という新しい教えが現れたのですね。もうブッダには会えない、ブッダの教えは廃れてしまった、私たちはブッダと離れてしまったという絶望から、我々の住む宇宙の外・他方世界(他の宇宙)にはいまだ長寿を保ち、説法し続けているブッダがいるはずだ、という仮説を立ててブッダを探し始めたのです。
そこで、十方の諸仏が「発見」された(発見したと主張する人々が現れた)のですね。 なかでも、西方極楽浄土で法を説く阿弥陀如来という有難い仏様がいる、という話はたいへん人気を集めたのです。
これは「法滅」という絶望感に襲われていた人々が、またブッダと出逢えたということです。仏教が消えつつある世の中で、またブッダと逢えた。真理と無縁だった私が、また「仏になる身となる」 法然上人の言葉を借りれば、「三学の器では無かった」私が、三学の器となることです。これは、この上ない喜びだったと思います。
浄土教には複雑な教学はありますが、ずばりお念仏とは、「お釈迦様と離れてしまった人々が、ブッダとの縁・「絆」を再び結んだ喜びの声」ということだと思います。
ただし「南無阿弥陀仏」と称える「行」によって悟るというのは、念仏の元々の趣旨から少し外れると思います。親鸞聖人は「報恩謝徳」の念仏ということを仰っていますね。仏様との絆に喜び、感謝するお念仏です。これがお釈迦様の時代の念仏にあっていると思います。
また、死後、極楽浄土に往生というのは、「生まれ変わっても決してブッダとの縁は切れない」ということの文学表現ではないかなと思います。もし仮に極楽浄土があったとして、死後そこに往生するのだとしても、私たちがお浄土に生まれてからすることは一つだけ、「仏道の修行」です。阿弥陀如来薬師如来、阿閦如来、などなどブッダ(如来)にはいろいろ名前がありますが、ブッダであれば、「教えはみな同じ」なのです。これは経典にも明記してあることです。

真理は変わらない

宗派を問わず、よく知られている「七仏通戒偈」(法句経) には、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」とありますが、実際には「諸仏の教え」は寸分違わず同じなのです。ブッダは生命にかかわる真理を説かれました。生命が生命であるかぎり、その真理が変わるはずは無いのです。
過去のブッダはみな同じ教えを説いていたし、未来に現れるブッダ(弥勒如来)もまた同じことを教えるのです。どんな仏国土に生まれても、この世界の仏教と同じく、四諦八正道を実践するのです。諸行無常、一切行苦、諸法無我、を覚り、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願って生きる道を歩むのです。
ですから、お念仏の教えを通して、ブッダ・仏様との「絆」を取り戻した私たちが実践すべきは、私たちの世界のお釈迦様の教えなのです。お念仏を土台にして、お釈迦様の説かれた仏道に励むことです。
皆さんはもう、ブッダと強い絆で結ばれているのですから、お浄土に生まれるのを待つまでもなく、この世でするべきことは仏道修行です。この世でブッダの教えを、智慧と慈悲の教えを実践することです。
「報恩謝徳」の念仏というのは、仏様との絆に感謝する念仏です。でも仏様は自分の名前を何回も唱えられて賛嘆されても、あまり嬉しくないんです。他宗教の神様はそういうことを喜びます。イスラム圏で戦争が起こると、一方が「アッラーは偉大なり!」と叫びながら敵にミサイルを発射すると、もう片方も「アッラーは偉大なり!」と叫んで反撃のミサイルを発射する。そうすれば神様の祝福を受けられると思っているんですね。イスラム教に限らず宗教はそういう滑稽なことをしています。でも、仏様・ブッダはそんなことされても嬉しくないんです。決して、褒めてくれません。
ブッダが褒めるのは、お釈迦様が賞賛するのは「人々が真理を学んで、心清らかにして悟りをひらくこと」なのです。お釈迦様はクシナガラ沙羅双樹の下で亡くなる直前にこう仰りました「本当にブッダを礼拝する人とは、ブッダに礼をする人とは、ブッダの教えを寸暇を惜しんで実践する人だ」と(『大般涅槃経』)。

悪人正機とは?

親鸞聖人の教えを表す言葉に「悪人正機」があります。随分誤解されることも多い言葉のようです。
この「悪人」というのは、決してネガティブな暗い言葉ではないのです。私たちのありのままの姿をありのままに表現した言葉です。
お釈迦様の時代、インドには無数の宗教家がいました。お釈迦様以外の宗教家はみな、「永遠の魂」「永遠の命」というものを求めていました。いまのみじめな自分を離れた、光り輝く「本当の私」を探していたんですね。そのためにあらゆる苦行や冥想や儀式を行なっていたのです。でも、誰一人として光り輝く「本当の私」など発見できなかった。それに対してお釈迦様は、ただ一人、「ありのままの自分」を観察することに挑戦したんです。つまり「私の本当」を虚心に観察したんですね。
その結果、「私の本当」「私の本当の姿」というのは碌でもないと、とことん分かったのです。その瞬間、一切の執着から、こだわりから、心が離れて解脱したんです。何も執着に値しない、という自由の境地に至ったんです。ブッダになったのです。
お釈迦様が発見された「私の本当」を親鸞聖人の言葉に直せば、「悪人」ということになるのです。それが「私の本当」です。「私の本当」にとことん出会った人は、心が自由になるんです。
自分が悪人だと気づいた人はどうすべきでしょうか?「悪」は捨てるものです。悪性腫瘍を後生大事にとっておく人はいませんね。「私の本当」に執着すべきものなど何もない、捨てるものしかないのです。捨てるに徹することで、人は自由にいたるのです。

念仏を土台に善行為を

ちょっと脱線しました。
私たちが仏道を歩む基礎として、時々挫けてしまう私たちが心を奮い立たせてブッダとの絆を確認するために、どうぞお念仏してください。
お念仏で心を喜びに満たして、苦しい時はお念仏に立ち返って、あらゆる善行為(お釈迦様が勧めた修行など)もお念仏を土台にやるんだと理解して積極的に実践していただければと思います。
お釈迦様が人々に推薦された修行というのは、とりわけ「慈悲の冥想」と「ヴィパッサナー冥想」最初にお話ししたサティの実践です。
具体的なやり方は副住職がよくご存知なので、聴いてください。私より真面目に修行されていますので。
念仏道場であるこのお寺を盛り立てて、ご同朋として明るく仲良く励んでください。
最後、お釈迦様の時代からある「念仏」の言葉、パーリ語の「ブッダの九徳」をお称えしたいと思います。

Namo Tassa Bhagavato Arahato Sammā Sambuddhassa.
阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊(ブッダ)に敬礼いたします。
Iti pi so bhagavā arahaṃ sammāsaṃbuddho
vijjācaraṇasaṃpanno sugato lokavidū
anuttarapurisadammasārathī
satthā devamanussānaṃ buddho bhagavā ti.
世尊は、阿羅漢*1、正自覚者*2
明行具足者*3、善逝*4、世間解*5
無上の調御丈夫*6
天人師*7、覚者*8、世尊*9、であります。
Buddhaṃ jīvitaṃ yāva nibbānaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
生涯、涅槃に至るまで、ブッダに帰依いたします。

ご静聴ありがとうございました。
 

日本「再仏教化」宣言!

日本「再仏教化」宣言!

拙著にも収録しました。
 
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

*1:一切の煩悩を滅尽し、神々、人間の尊敬、供養を受けるに値する方

*2:完全たる悟りを最初に覚って、その悟りへの道を他に教えられる方

*3:八種の智慧と15種の行「性格に関する徳」が備わっている方

*4:正しく涅槃に到達した/善く修行を完成した/正しく善い言葉を語る方

*5:1宇宙、2衆生、3諸行という三つの世界を知り尽くした方

*6:人々を指導することにおいては無上の能力を持つ方

*7:人間、それより超次元的存在である神々等の一切衆生の唯一の師

*8:真理に目覚めた方、ブッダ

*9:全ての福徳を備えた方