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『震災天罰論』をめぐる末木文美士氏との論争

 
Twitterをご覧の方はご存知かもしれませんが、311後、仏教学者の末木文美士氏(国際日本文化研究センター教授、東京大学名誉教授)との間でネット上で断続的に論争していました。
 
中外日報2011・4・26号「東日本大震災 とどけ、思い」に国際日本文化研究センター教授・末木文美士氏が寄稿。氏は文中で東日本大震災を「天罰」とする石原慎太郎都知事の発言に理解示し、「大災害は人間の世界を超えた、もっと大きな力の発動であり、「天罰」として受け止め、謙虚に反省しなければならない」と迷言をたれていたのです。

 石原慎太郎東京都知事が震災を「天罰」と発言したことで批判を浴び、取り消した。確かに氏の言い方は誤解を招きやすく、被災者を傷つけるところがあった。しかし、天罰という見方は、必ずしも不適当と言えない。もちろん被災地の方が悪いのではない。今日の日本全体、あるいは世界全体が、どこか間違っていたのではないか。経済だけを優先し、科学技術の発達を謳歌してきた人間の傲慢が、環境の破壊や社会のゆがみを招き、そのひずみが強者にではなく、弱者にいっそう厳しい形で襲い掛かってきたと見るべきではないか。
 日蓮の『立正安国論』では、国が誤れば、神仏に見捨てられ、大きな災害を招くと言っている。その預言を馬鹿げたことと見るべきではない。大災害は人間の世界を超えた、もっと大きな力の発動であり、「天罰」として受け止め、謙虚に反省しなければいけない。だから、それは被災地だけの問題ではなく、日本全体が責任を持たなければならないことだ。
*1

はぁ? 一読して呆れるやら腹が立つやらした私は、Twitterにいくつかの書き込みをしました。以下はその反響を交えてまとめたものです。

まとめの最後の方で、ご本人が登場します。末木氏は個人ブログbunmaoのブログを立ち上げて、この件に関する釈明と反論の記事をアップし始めました。

この記事を受けたTwitterでのやりとりの続きが、

にまとめられています。末木氏は

その後、私は連載を持っている雑誌サンガジャパン第6号でこの問題についての見解を述べました。パーリ経典に基づく限り、地震が「天罰」という言説は成り立ち得ない、という結論でした。

サンガジャパン Vol.6(2011Summer)

サンガジャパン Vol.6(2011Summer)

それを受けた末木氏のブログ記事が、

そしてさらに私がTwitter上で反論したものが以下のまとめ。

さらにさらに末木氏は、

と立てつづけに自説を再度主張しています。ただ、前者の記事では、

論争の発端になった「天罰」論に戻ります。「天罰」という言い方は、確かに誤解を招きやすい表現で、僕も違和感を持ちます。当初、石原慎太郎の「天罰」発言に賛成するような言い方をしたのは、自然を人間の営みと切り離して純粋自然現象とみる見方に対して、少なくとも、「天罰」という言い方は、人間の営みと関係させ、それを反省させる意味を持つと考えたからです。でも、石原の著作『新・堕落論』を読むと、副題に「我欲天罰」とあるにも関わらず、「天」のことにはまったく触れずに、手前勝手な時代批判をするばかりで、まったく僕の考えていることと異なります。ですから、誤解を招かないように、石原「天罰」論への賛成は取り下げます。*2

と述べていたので、私としては、この話は決着がついたなと思っていました。ちなみに、末木氏のこのブログ記事については、師茂樹氏(花園大学准教授)が以下のようなレビューをされています。

それで、東京新聞2011/0/24掲載の末木文美士「問い直される日本の仏教」(中)を読んだら、サンガジャパン6号震災特集に寄せた拙稿について、「震災を純然たる自然現象とみる見方」として批判されていました。

これ以上、あまり書くこともないのですが、末木氏が見当違いをしているのではないか、というポイントだけ、2011年9月12日 (月) 自然災害説は間違っているのコメント欄に書いておきました。以下に引用します。

東京新聞2011/0/24掲載の末木文美士先生 「問い直される日本の仏教」中 拝読しました。

サンガジャパン6号震災特集の内容を詳しく紹介してくださり、ありがとうございます。

同誌に載った拙稿も、スマナサーラ長老や玄侑宗久師と並んで「震災を純然たる自然現象とみる見方」として批判されてます。

以前、震災と「天罰」発言をめぐって 末木文美士氏との対話(2011年8月27日)
http://togetter.com/li/180088

でも言及しましたが、僕の立場は厳密に言えば「"地震"は純然たる自然現象とみる見方」です。 ”「自然の奥に神仏を考えるか」という問題と、「(地震を)あくまで自然現象と見るか」否かという問題は分けて考えるべき”です。

"震災"という場合は、福島第一原発事故のような人災や関東大震災の際の朝鮮人虐殺のような犯罪行為、地震を苦と受け取る個々人の業など複雑な要素にまでが関わってきますから。

パーリ仏典の註釈レベルでは、生命にかかわる現象の要因は、気象(自然環境の変化)、種子(生殖・遺伝)、心(心理的働き)、業(善悪の結果をもたらす自覚的行為と結果)、法(無常・苦・無我、因縁により変化し続けるという法)、の五つに分別できる(五決定)とされています。

このうち広義の「震災」(おそらく末木先生が仰っている「震災」に近いと思います)には心と業の問題が関わってくることは確かでしょう。いわゆる「心と行いの問題」ですね。仏教では霊的存在も含む自然界の一切生命との関係を重視しますから、そこで「震災」を受けて、荒れてしまった一切生命との関係を結び直す儀式を行う、というのは仏教的な文脈ではしぜんな流れです。

佐藤剛裕さんがサンガジャパン6号で紹介したように、ダライ・ラマ師が震災犠牲者の法要で「大地の主と四大の女神たちへの供養文」を読んだというのも、仏教的にしぜんなプロセスでしょう。

(上述のツイッターまとめでは、”地震に起因する自然災害によって崩れた人間と自然との関係を修復するために、神々に呼びかけて菩提心の想起(テーラワーダ的には慈心・悲心の想起)を促すことはありうる”と書きました。)

それを「震災を純然たる自然現象とみる見方」と対立させるのは、ちょっと見当違いではないかと思います。*3

追伸:

補足すれば、「仏典による限り、地震は自然現象として起ることしかあり得ない」のです。それが"震災"として様々な悲劇を生じさせることには、確かに(生命の)心と業のはたらきが関わっています。

それをごっちゃにして、地震に起因する震災にわざわざ天意を読み込んで(その実は、自分の勝手な情緒を投影して)、見当違いな「反省」をし、「自然との対話」云々を言い出すことは、仏教者の態度としてはまったく的外れだということです。

それは、末木先生の過ちとして、指摘しておきたいところです。

ちなみに震災と「天罰」発言をめぐって 末木文美士氏との対話(2011年8月27日)で紹介した中部経典に出てくる「仙人の怒りで都市が滅びたという俗信」についてはサンガジャパンの最新刊(第7号)の連載で詳しく紹介しています。

サンガジャパン Vol.7(2011Autumn)

サンガジャパン Vol.7(2011Autumn)

よろしければ、読んでみてください。

この論争、まだ続くのでしょうか?

続くようでしたら、またこちらでも報告したいと思います。


追記:末木氏はその後、ブログに「ご意見有難うございます」(2011年9月25日 (日))というエントリを掲載しており、私もコメントしていますが、これは「論争」に加えるべきものか……。


〜生きとしけるものが幸せでありますように〜

*1:http://bunmao.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-e87f.html

*2:[http://bunmao.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-c855.html:title]

*3:この一文は推敲が足りなかった。「その通仏教的なダライ・ラマ師の振る舞いを「震災を純然たる自然現象とみる見方」(テーラワーダ仏教もそこに入れられている)と対立させて、末木先生の所論に引き寄せるのは、ちょっと見当違いではないかと思います。」とでもすべきだったか。でもコメント欄は後から修正削除不可なので、そのままにしておきます。