呉智英『つぎはぎ仏教入門』を読む(2)

こちらの続きです。

つぎはぎ仏教入門

つぎはぎ仏教入門

『つぎはぎ仏教入門』(筑摩書房)著者の呉智英氏は、7/22(金)放送のCS朝日ニュースター宮崎哲弥トーキング・ヘッズ」にゲスト出演して新刊をプレゼン。仏教は「覚り」の宗教、キリスト教は「救い」の宗教である、と説明したくだりで、そこでなぜか「攻め」とか「受け」とかいう単語が飛びかっていました。夫子(呉智英氏の愛称)お元気そうで何よりです。
 
前の記事でも触れましたが、本書は、

 専門家が書いた仏教書は、緻密な記述によって、まるで深い森のような荘重な趣を漂わせているけれど、読む者はその深い森に迷い込んでしまい、出口は見えない。そんな仏教書を、蛮勇を振るって好きなように読み、仏教書以外の歴史書や哲学書を、これも気ままに読み、そこで知りえたことをつぎはぎしてみると、かえって仏教が概観でき、仏教の核心が現れてくる。
 本書はそういう仏教入門書である。*1

という趣向の本です。部分的には著者の包丁さばきに「さすが」と唸らせる箇所もありました。でも、なまじ仏教オタクの自分には「素材がちょっと」とクレームをつけたくなる記述もありました。
 
呉智英氏は仏教を大きく「小乗」と「大乗」にわけ、前者を自利、後者を自利利他とする説明をしています。

小乗:自利(自らの覚り)、声聞・独覚
大乗:利他(衆生を救う)、菩薩*2

でもこれって、理解がステレオタイプだなぁと思いました。当ブログ記事「仏教理解の逆さメガネ」に詳しく書きましたが、大乗で強調する「利他」はあくまで菩薩道の思想と絡めて理解すべきです。大乗仏教では、お釈迦さまの教えに従って今世で覚りをひらく(阿羅漢になる)という仏道の伝統を否定して、修行者は無限に近い時間を波羅蜜行についやしてブッダと同等の存在(正覚者)にならなければならない!としたのです。「菩薩の利他」が大乗の根本精神であることは確かですが、「菩薩の」という言葉を持ち出さなければ、まさしく「仏教は終始一貫「自利利他」の教え」なのです。
 
専門家じゃない著者に言っても詮無いことですが、いまだ小乗/大乗という二分法で仏教が語られる状況があります。ありていに言えば、これはマインドコントロールです。小乗/大乗は、学問的にはとっくに「死語」になっています(歴史的文脈を明記した上で、かなり条件付きでない使われない)。しかし佐々木閑ひろさちやのように識者が、「差別ではない、小乗を評価するためあえて使うのだ」といった欺瞞的な言い訳をすることで「小乗」の語が延命させられているのです。差別語をあえて使うことがカッコイイ、というくだらないスノビズムですね。ほんと、バカだと思います。
 
呉智英氏は別に自分が「洗脳」されているとは思っていないでしょうが、小乗/大乗という図式を受け入れた上で概念を微調整したところで、思考のフレームを揺るがすことにはなりません。これは呉智英氏、奇矯なことを言っているように見えて、仏教に関してはけっこう凡庸なコピペ言説の引力圏をぜんぜん抜けてないな、と思いました。
 
この問題に関連して呉智英氏は、

小乗――釈迦の本心を受け継ぐ仏教
大乗――釈迦の決断を受け継ぐ仏教*3

という事を「ドヤ顔」で記していますが、これって渡辺照宏『新釈尊伝』あたりにインスパイアされた言葉じゃないかなぁと思います。後述するように梵天勧請との絡みで語っていることですが、はっきり言って、無内容です。釈尊の本心と決断を受け継いだのがその後の仏教なのであって、そこを焦点にして小乗(=現在の上座部とみなされる)と大乗に分裂したということはあり得ない話です。そういう図式自体が、大乗仏教の描いた図式を無批判に受け継いでおり、一方的で非学問的な言説なのです。詳しくは、「基本的にダメな『日々是修行』」とリンクを辿っていただければ、ご理解いただけると思います。
 
そういうわけで、仏教の基本的概念について、つぎはぎならぬ「概説書の切り貼り」的な記述が続く第二章「仏教はどういう宗教か」,第三章「釈迦は何を覚り、何を説いたか」はちょっと退屈でしたが、第四章「仏教の発展と変容」からは日本仏教への批判が中心になっているので、まぁまぁ面白く読めました。著者は「智慧による解脱」を目的とする仏教について、

 このように理知的な宗教であることは、宗教としては決定的に弱点となっている。宗教として広汎な人々の信仰を得るには、感動的で分かりやすい物語である神話を教義とした方が有利に決まっている。
 それだけではない。第三章で「諸法無我」を論じた時に指摘したように、仏教では、人間が有限な存在であることを覚ることで「涅槃寂静」すなわち安楽な境地に達する、とする。しかし、衆生が宗教に求めるものは、全く逆の恒常無限の我である衆生は、自らが有限の存在であることに不安を感じ、無限の存在に憧れている。それを、仏教では「執着」「妄執」として否定しているのである。 *4

 人は真理に目覚めるよりは微睡の安逸を好み、峻烈な真理を凝視するよりはそれから目を背ける。
 ここに仏教の抱える重大かつ根源的な難問がある。
 仏教はこの難問を克服しなければ発展してゆくことができない。それは半面から見れば、難問を回避し、仏教の教理を変容させれば、世俗的な発展ができるということでもある。結果的に仏教はこの道を選んだ。仏教は釈迦本来のものとは違った宗教になりながらアジア各地に広がっていった。 *5

こういうまとめ方はさすが呉智英氏と思います。確かに、教義的にはまったく大衆受けしないブッダの教えに民衆が熱狂した、ということ自体がお釈迦さまの起こした最大の「奇跡」ですよ。
 
著者は学生時代に、釈尊成道後の梵天勧請のエピソードを読み、そこに「知識人の原形」を読み取って感動したそうです。実は、本書のポイントはこの「知識人の原型としての釈迦」論に尽きるんですね。
 
その後、第五章「仏教と現代」では、「仏教の根源的な弱点」として、経済発展の問題とジェンダーなどの女性問題を挙げていますが、著者は律蔵を読んだ形跡がないので、あまり深い指摘にはなっていない気がしました。
 
呉智英氏らしい毒舌が光るところも、勿論あります。
 
第二章の初期経典(阿含経)に触れた箇所で、新興宗教の「阿含宗」はこれと全く無関係と指摘したり*6、第三章のコラムで「仏陀の再誕」を自称する幸福の科学大川隆法を秒殺してみせたり*7
 
こういう知識は、「一般教養」としての仏教が日本人の間で完全に廃れてしまった現代には、仏教「入門書」にこそ書かれるべきだと思いました。
  
『つぎはぎ仏教入門』の読後感は、「楽しく読めたが、イマイチ感も拭えない」といったところでしょうか。
 

放談の王道

放談の王道

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

*1:『つぎはぎ仏教入門』はじめに 13p

*2:『つぎはぎ仏教入門』第四章「仏教の発展と変容」 113p

*3:『つぎはぎ仏教入門』第五章「仏教と現代」 170p

*4:『つぎはぎ仏教入門』第四章「仏教の発展と変容」 104p

*5:『つぎはぎ仏教入門』第四章「仏教の発展と変容」 106-107p

*6:『つぎはぎ仏教入門』第二章「仏教とはどういう宗教家」 53p

*7:『つぎはぎ仏教入門』第三章「釈迦は何を覚り、何を説いたか」コラム6「仏陀」が再誕する? 85p