さとりの条件

2010年03月13日(土) 14:00より行われた、ゴータミー精舎でのスマナサーラ長老の法話と冥想の会。質疑応答の模様などtwitterメモをもとに再現しました。


Q)コンダンニャさん釈尊のはなし聴いただけでさとった。さとるのって、そんなに簡単なのか?


A)さとりは一部の人にのみ恵まれたものではない。論理的に人間なら覚りに達することできるはず。条件:物事を理解できるのか?ということ。釈尊の時代覚らなかったケースは殆どなかった。出家も在家も男も女も。当たり前のように真理に達する。覚りは稀なことである、なら仏教でなくなる。

誰もが幸福になれる道でなければ語る意味がない。稀な人しか到達できないことを喋っても意味ない。

現代人には、そんな簡単に?という疑問は出てきますが。なぜ仏教の世界で人がさとれなくなったか。歴史的に研究しないと。人間が堕落したというのはちょっと成り立たない。

末法思想は作り話。釈尊仰っている人間の堕落はもっと巨大なスケールの話。人々は後か作られた話を信じて、元の教えを調べようとしない。釈尊もそれを知っていたから、調べ方を示した(涅槃経 四大教示)。人間が教えを伝える場合は主観が混じって退化して行く傾向はある。

教えの中身ではなく、歴史的な問題。教えの中身はいまでも機能する。真理ですから、時代によって変わりましたということは成り立たない。私の主観では、仏教徒たちも仏教を他宗教と似たようなものにしたがった。釈尊は宗教家と一緒に活動したが、仏教は宗教でなかった。

後から宗教的な儀式儀礼を付け加えた。覚り達することは後回しになった。ブッダの教えは後回しにして、代わりに自分でテキストを書いた。SF的な物語にしてしまう。いま悟れる、努力次第だよ、ということが消えてしまった。それは大乗仏教だが、テーラワーダも同じようなもの。

テーラワーダも儀式儀礼ばかりになっている。何がいいか悪いか、学んでから批判しないといけない。仏教だから宗教だからと拒否することは成り立たない。先に結論付けて反応するのは罪。調べてデータに基づいて語らないと罪になる。他宗教批判する場合も釈尊はまず相手の話を聞いた。

自分の主観、先入観は邪魔なもの。理性ある人は作らない。自分に先入観あるかということはすごく気を付けて自分で調べないといけない。仏教の先入観で相手を切り捨てることも注意しないといけない。理性ある人ならないはずだが、時々先入観に覆われることがある。

先入観の壁にぶつかると修行に結果がでなくなる。そこ突破しても、自己愛という壁が現れるんです。そこを破れば覚りの世界。いまでも説法聞いてさとれます。条件ある。語る人がしっかり自我がないということを順序建てて語れるか。聞く人も集中して論理的に理解できるか。

迫力ある説法師が覚らせるわけではない。論理的に理解させないと、理解しないと。仏教ではその人が抱える具体的な苦を通して語る。(自分のこととして教えを納得して理解してもらう)愛着するものは全て自分から離れて行く。自分の身体さえ管理できずに壊れて行く。

自分の心さえ対象に依存して揺れ動き続ける。自分の心さえ因果法則によって動く。心さえ自分の意のままにならない。一切に執着は成り立たない。成る程そうだと理解すれば覚りです。説法でも悟れますがなかなか条件は揃わない。

覚りたい、という気持ちもなかなか起こらない。目的がなければ、前には進めない。現代人の問題はこれ。

そこでプランBの方法。自分で生きるとは何かと徹底的に客観的に調べて、「解脱しか道はない」と納得しないといけない。それには時間がかかる。釈尊の時代はプランAの「苦しみを何とかしたい」と真剣に願っている人がたくさんいた。そのために出家までして答えを探していた。

社会が発展してもテクノロジーお陰で人間が孤独に寂しくなるだけで、人間の苦しみというのは無くならないんです。状況は変わっていない。昔より頭悪くなった訳でもないし良くなった訳でもない。四聖諦の教えがある限り人はさとれますよと、釈尊は仰っています。


Q)仏教の冥想、ヨーガ、坐禅の差は?


A)共通する処は、人は身体のことをいくら頑張っても捨てるものです。心の成長を目指すべき、という処は似ています。そこから先は差がある。ヨーガは永遠の魂を前提にしている。梵我一如を目指す。アートマンを検証なしに前提としている。アートマンが成り立たないんだから無駄な努力。

ヨーガで精神的に成長はしますが、山の上の宝箱を開ける目的で登山しているのに、鍵を忘れるようなもの。感情と先入観でアートマンがあると信じ込んでいる。教えの真髄が邪見なら、最終的な結果はでない。身体を虐めて脳をいじるので幻覚は起こるが。

脳は酸欠状態になると暴走する。幻覚を見るが我々は認識したものが真理だと思ってしまう欠陥がある。脳が変化起こすと臨死体験みたいな経験すると、それこそ真理と思ってしまう。本人の経験なので否定しないが、中身を検証する。その経験で煩悩が無くなったのか、頭よくなったのかと。

禅については、仏教の世界修行だが、初期仏教にぴったりあっているなぁと思える禅師様の教えもあれば、こりゃダメだというものもある。執着を捨てる、という方向に行かないといけない。仏様が覚らせてくださるとなったら、それ自体、巨大な執着なのです。

似ているのは、最初のところ。そこからは中身を調べなくてはいけない。

言葉に乗ってはいけません。実際に何をやっているのか、という中身を調べてください。

スローガンはだれでも言えます。では本当にその通りやっているのかと。釈尊は公に話す場合は自分を如来と言う。如来の定義の一つ、如来は言っていることはその通りに実践している。


Q&A終わり


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