神田千里「一向一揆と石山合戦 戦争の日本史14」〜解体される一向一揆神話
- 作者: 神田千里
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 2007/09/15
- メディア: 単行本
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以前当ブログで紹介した『宗教で読む戦国時代asin:406258459X』 (講談社選書メチエ)*1の3,4章に該当する内容である。
一向一揆とは、真宗本願寺門徒による武装蜂起を指す。彼らの信仰は、当時の封建的人間関係に批判的なものであったとされ、覇権をめざす信長とは原理的にぶつかりあった。このため、信長はこれを根絶やしにしようとした(amazon.co.jp掲載 担当編集者レビューより)
……という一般的な一向一揆像が、「歴史的事情からかなりのバイアスがかかって形成された」という著者説を室町末期畿内や加賀・北陸の政治状況と絡めて丹念に証明したのが本書。端的に結論だけを述べれば、
本願寺は、現世の支配者を批判するような信仰を説いた形跡は実は見つかっていないし、当時の世俗の政治権力に密着していた。むしろ室町将軍は本願寺に対し、大きな影響力を持っており、一向一揆自体が、当時行われた政治抗争の一つにすぎない(同上)
という見も蓋もない事実が明らかになってしまうのだ。目次に沿って構成を紹介すると、
- I:一向一揆像の変遷
それぞれの時代にいわゆる一向一揆がどんな言葉で呼ばれ、どう描かれてきたかを手がかりに、歴史書の中に定着して言った一向一揆像を検討。「「歴史」の歴史」だね。
一向一揆と言えば、本願寺が組織した一揆についてもっぱら語られる。しかし実際には同じ真宗の高田派や三門徒派も一揆を組織した。彼らの一揆は本願寺と敵対するものだった。「一向一揆」がもっぱら本願寺に帰せられたのは、本願寺布教師たちによる「歴史創造」の賜物だった。
ちなみに15世紀後半、山門(比叡山)から攻撃を受けた本願寺派は「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号にちなみ「無碍光宗」と呼ばれていたそうだ。
- II:加賀一向一揆の展開。
蓮如が越前国吉崎に滞在したことをきっかけに起こった一向一揆が加賀一国を支配するに至った経緯。馴染みの薄い固有名詞が頻発して、正直お手上げだった章。でもここを我慢すればあとは一気に面白ゾーンに突入。
- III:享禄・天文期の一向一揆
室町幕府政権をめぐる抗争と民衆の武装蜂起がどんな接点を持ったのか?
著者は、本願寺法主自身が教団の総意により地位を承認される(本願寺一族、家臣、門徒ら教団全体の衆議に基づくトップ承認)という「一揆の構造」を持った組織とする。故に、政治的利害により、本願寺一族から他の法主を推戴しようという分裂の動きもあった。
こういう上意下達ではないボトムアップの組織構造ゆえに、いったん政治介入をはじめると本願寺内の派閥のパワーバランスを図るためにとめどなく軍事行動を起こさざるを得なかったという側面もあるのかもしれない。これってその後も日本型組織が抱えてきた問題?
- IV:石山合戦
織田信長の覇権の前に立ちはだかった本願寺!とゆー石山合戦の実像を資料に基づいて活写。死屍累々だが、信長は浄土真宗の信仰を弾圧しなかったこと、何度も和睦に応じたこと、和睦後は本願寺救援の兵も出したことなど、目から鱗の事実も累々。
本願寺を不倶戴天の敵としたかのように後世の本願寺布教師の「かたり」で脚色された信長だが、その政教関係についての考え方はむしろ本願寺中興の祖である蓮如と似通っていたとする。
石山合戦を指揮した顕如が石山本願寺を退去した後も抗戦を叫んだ教如は、本願寺内の足利義昭派に推戴されたらしい。本願寺は足利義昭の呼びかけた反信長連合の一角としてパワーゲームに参画していたのであって、信長は念仏信仰を敵視したわけではない。
本願寺門徒は法主のロボットだったわけではなく、それぞれの門徒小集団が合議の末、夫々の状況判断で一揆に参加あるいは不参加を決断した。本願寺は、一揆参加を親鸞と本願寺への報恩感謝のためと呼びかけ「一揆参加が極楽往生の条件」とは言わなかった。
しかし、一揆に参加した門徒たちは「本願寺のために討ち死にすることが極楽往生につながる」と考えており、戦場では僧侶もそうアジッた。門徒の間では、本願寺法主は、門徒を地獄に落とす力量も、大罪を犯したものも救済する力量もあると信じられていた。
- V:一向一揆の行方
織豊政権下の本願寺教団について。天正8年の大坂退去をもって一向一揆は消滅とされてきたが、本願寺は強大な本山としてむしろ発展する。この一見つじつまの合わない現象を謎解きする。前田家の支配に服した加賀の本願寺派動向もフォロー。
「宗教で読む戦国時代」でも触れられていたが、宗教統制としての面が強調されてきた「寺請」が、実は冤罪を生みやすかった徳川初期のキリシタン摘発から檀信徒を守るという、寺院のアジール性を継承する動きでもあった、という指摘は新鮮。
- 寺檀の信心 エピローグ
「一向一揆は本願寺によって説かれ、門徒たちが共有してきた教義と信仰の、支配者への抵抗をも厭わない反権力的内実と不可分である」という従来の歴史学の通説は否定された。「少なくとも本願寺教団は反権力的な集団ではない。」
門徒も常に権力に反抗していたわけではない。彼らは自らの生き残りをかけて行動した。寺院を中核とした一揆は本願寺派に限らず多数あった。徳川初期に家制度が確立したことも、これら一揆の歴史と関連があるのではないかと。近著につながる問題提起。
- あとがき
「一向一揆を考える上で、民衆と寺院・僧侶との関わりを宗教社会史ともいうべき分野の問題としてとりあげる必要がある」「寺院、僧侶、それに信徒たちの歴史を解明するという課題に、微力ながらとりくみ続けていきたい」という著者に今後も期待。
以下、余談。
それにしても、戦国仏教、読めば読むほど、面白い。
去年読んだ湯浅治久『戦国仏教―中世社会と日蓮宗asin:4121019830』 (中公新書) *2もなかなか興味深い内容だった。
「寺社勢力」が公家と武家と並んで日本の政治秩序を三分していた時代、比叡山や高野山、根来寺などは巨大な「境内都市」だった(伊藤正敏の提唱による)。叡山の大衆=境内都市の市民、と言い換えても極論ではない。彼らは律蔵の規定に由来する民主制による合議で自治都市を運営しており、都市防衛と権益拡大のために武装して戦ったのである。*3
それが釈尊や祖師の本意に適っていたかは別として、生産性のきわめて低かった時代に、仏教寺院という「浮世離れした(出世間)」場所において、長期に渡りさまざまな「社会実験」が行われてきたことの意味は、きちんと再評価した方がいいだろう。
そしてその社会実験の成果が、社会の流動化の結果として「山を降り」、日本社会の隅々にまで浸透していったのが、室町後期から戦国にかけての時代だった、という史観も成り立つのではないかと思う。
これは半分与太話だが、戦国武将たちが人質にされてた仏教寺院から持ち帰ったのは、同性愛(衆道)と民主主義(合議制)だった。
日本のビジネスマンはいつも戦国時代に立ち戻って活力注入するように……とはいかずとも、現代の日本仏教が戦国仏教のあり方から学ぶべきことも(反面教師含め)多そうな気がするな。
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〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜