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『仏陀再誕』は弥勒(未来仏)とも無関係。楳図かずおは天才。

菩薩は必ず出家して「成仏」する

ついに公開された映画『仏陀再誕』ですが、「釈迦牟尼仏陀が再誕する」という主張があまりにも無理筋であることに気づいたらしい某教団は、最近、しきりに「再誕の仏陀は未来仏、つまり弥勒仏陀の下生である」ということをほのめかしています。


教団関係者が執筆していると思われる wikipedia 記事には唐突に、

過去七仏、仏陀再誕の言い伝えがある、インドのアジャンター村の石窟寺院の第17窟に、未来仏を含めた「八仏」が描かれている。

として、写真が貼り付けられています。写真の右端に王族の装束を着た未来仏が描かれていることを取り上げて、インドの仏教遺跡は「スーツを着た仏陀の出現を予言していた」と強調したいようです。でもこれは、仏教美術のイコノロジーへの無知から来た誤解に過ぎません。


未来仏として受記されているという弥勒(マイトレーヤ、メッティヤ)は、仏典によれば現在トゥシタ天(兜率天)という天界で菩薩として修行しているのです。2009-09-30 様々な菩薩の奇跡と、ほんとうにすごい“ブッダの十八番”でも紹介しましたが、すべてのブッダはその菩薩としての最後の生の直前は、トゥシタ天で過ごすことになっています。まだ菩薩で、天界では出家しているわけでもないので、その姿かたちはインドの王族に取材した菩薩の格好なのです。


アジャンターの石窟に描かれているのは、その弥勒菩薩の「現在」とされる姿でしょう。菩薩はそう描かれると決まっているだけの話で、べつにスーツを着た仏陀が現れる予言とか、全然関係ないですから。


菩薩は、その最後の生では必ず出家して、家族や地位や名誉を捨てるのです。決して奥さんと一緒に選挙に出たり、アニメ好きの息子に「父ちゃんは仏陀再誕」とゆー脚本を書かせて映画つくったりしません。そういう世俗のくだらないあれこれを捨てて、出家して、不惜身命で真理を探求するのです。そこまで自分を投げ出して、世を照らす真理を発見するからこそ、仏陀と呼ばれるのです。

長部経典『転輪聖王獅子吼経』を読む

それから、弥勒菩薩が現れる時期についても、『仏陀再誕』関係者のみならず、一般的に誤解があるようです。よく五十六億七千万年後に世界を救済しに現れる、という決まり文句がありますが、初期仏教経典の記述はもっと複雑です。


釈迦牟尼仏陀の言行録として編纂されたパーリ経蔵(スッタ・ピタカ)には、いわゆる弥勒菩薩(メッティヤ)に関する記録が一箇所しかありません。それも比較的後世に完成したと思われる長部(ディーガ・ニカーヤ)に収められた『転輪聖王獅子吼経 cakkavattisiihanaada-suttanta』(D 26)の隅っこで、「ではついでに……」という感じで語られているだけです。

原始仏典〈第3巻〉長部経典3

原始仏典〈第3巻〉長部経典3

「長部」というだけあって、『転輪聖王獅子吼経 cakkavattisiihanaada-suttanta』は大変長い経典です。しかし内容は比較的簡単に理解できる歴史寓話です。


釈尊は比丘たちを前に、転輪聖王と呼ばれる理想的統治者が世界を支配していた過去の歴史を振り返ります。転輪聖王の時代、人間の寿命は八万歳で、世界には殺人はおろかわずかな盗みすら存在しませんでした。しかし、七代目の転輪聖王の長男が八代目の王位を引き継いだ頃から、理想世界の秩序に陰りが生じます。


八代目の王は、父王からのいいつけを守って堅実に世界を統治しますが、ただ一つ、貧しい国民への施し(社会福祉)を怠ったのです。施しを受けられずに困窮した国民は、はじめて「盗み」を犯します。盗人を捕縛した王は、気前よく犯罪者に金を与えて「これで生計を立てて家族を養え」と言って釈放します。しかし貧しい国民すべてに施したわけではないので、他の困窮者がまた盗みを犯します。それでまた王がその犯罪者に金を与えて釈放する、ということが繰り返されました。


八代目の王は、近視眼的な温情主義をとって王様ぶることばかりに腐心して、自らの失政(社会福祉の軽視)が困窮者を生んでいるということにまったく気づかなかったのです。イタチごっこに疲れた王は次に、犯罪者を厳しく罰することを思いつきます。盗みを働いたものは、捕縛されると激しい拷問を受けた末に処刑されるようになりました。


王の厳罰主義におののいた困窮者たちは、盗みに入る際には(目撃者が残らないよう)殺人まで犯すようになり、社会の治安はますます悪くなったのです。

 このように、比丘たちよ、財のない者たちに財が与えられないと、貧窮が拡大しました。貧窮が拡大すると、与えられないものを取ることが拡大しました。与えられていないものを取ることが拡大すると、刀が拡大しました。刀が拡大すると、殺生が拡大しました。殺生が拡大すると、かれら人々の寿命が減りました。容色が衰えました。その寿命が減り、また容色が衰えたため、寿命が八万歳の人間も、その個は寿命が四万歳になりました。(片山一良・訳)

寿命が四万歳になった次の世代では、窃盗犯が王に捕まっても、取調べに対して「故意に偽り、語」ることが起こります。為政者(王)の失政にはじまった世界の凋落は、「偽り、嘘」の横行によってさらに加速されます。「寿命が四万歳の人間も、その子は寿命が二万歳になりました」。次の世代では、「あいつは○○の罪を犯した」として他人を中傷する「両舌」が拡大し、人間の寿命は一万歳に減る。

 比丘たちよ、人間の寿命が一万歳のとき、ある人々は美しくなり、ある人々は醜くなります。そのうち、醜い人々は、美しい人々を嫉妬し、他の妻たちと交わりを行いました。

この世界にイケメンとキモメンの差別が生じたことで(!)邪淫が拡大し、寿命は五千歳に減ってしまうのです。

世界の電波男 ― 喪男の文学史

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そこからは坂を転げるように、悪口と綺語、貪りと怒り、邪見といった悪法がはびこり、人間の寿命は「ある一部の者たちは二百五十歳に、ある一部の者たちは二百歳になりました」。最後に増大する悪法は、「母に対する不孝、父に対する不孝、沙門に対する不恭敬、バラモンに対する不恭敬、家の長老に対する不敬」で、ついに人間の寿命は百年となるのです。


仏典によれば、この「百年」という寿命を生きている人類こそが、現代の私たちなのです。お釈迦様が現れたのもこの時代です。統治者たる王が、貧しい人々への施しという公的な「富の再配分」を怠ったことで、社会が疲弊して犯罪が起こり、人心が荒廃してあらゆる悪徳がはびこり、人間の寿命も短くなってしまう。この寓話的な語り口に、釈尊一流の政治批判を読み取ることも可能でしょう。


で、『転輪聖王獅子吼経 cakkavattisiihanaada-suttanta』によれば人類の凋落はさらにエスカレートし、ついに人間の寿命は十歳にまで縮まるとされています。少し長くなりますが、人間の寿命が十歳の世界の描写が面白いので、経典から引用しましょう。

 比丘たちよ、これら人間の子の寿命が十歳になる時代が現れるはずです。
 比丘たちよ、人間の寿命が十歳のとき、五歳の少女が結婚適齢になるはずです。
 比丘たちよ、人間の寿命が十歳のとき、これらの食味が消失するはずです。たとえば、バター・生バター・油・蜂蜜・糖蜜・塩のようなものです。

クソまずい稗の飯が最高のご馳走になるぞ、と続きます。

 比丘たちよ、人間の寿命が十歳のとき、十善業道が、すべて悉く消失するはずです。十不善業道が極度に燃え立つはずです。
 比丘たちよ、人間の寿命が十歳のとき、善というものさえも現れないはずです。善を行う者については言うまでもありません。

十善十悪の十善はまったく行われず、もっぱら十悪だけの世界になるとのことです。

 比丘たちよ、人間の寿命が十歳のとき、<母である>とか、<叔母である>とか、<叔父の妻である>とか、<師の妻である>とか、<尊重者たちの妻である>ということがなくなるはずです。世界は、まるで山羊や羊、鶏や豚、犬かジャッカルのように、混沌としてしまいます。

性的なタブーがなくなり、禽獣のように交わるようになると言います。まさに世も末です。

*1

そしてついに、人類がほぼ滅亡に追い込まれるようなハルマゲドン的な大惨事が引き起こされるのです。

 比丘たちよ、人間の寿命が十歳のとき、七日間、刀の中劫が現れるはずです。かれらは、互いに鹿の相*2を獲得します。かれらの手に、利刀が現れます。かれらは利刀によって、『これは鹿だ』『これは鹿だ』と、互いに命を奪い合います。

このような凄惨な殺し合いが七日間、続くと言います。


えーっ……この期に及んで、弥勒菩薩はまだ現れないんでしょうか? 


はい、ぜんぜん現れません。


人類が自業自得で堕落して、寿命が十歳にまで減って、禽獣のような醜態をさらし、お互いを「獲物」と見て殺しあう事態を、弥勒菩薩はトゥシタ天で修行しながらやり過ごしています。バカは何を言っても聞かないから、放っておくのです。

 比丘たちよ、そこで、かれら人々の、ある者はこのように考えるはずです。<われわれは誰も、また誰もわれわれを、害してはならない。われわれは、草の茂みに、あるいは林の茂みに、あるいは樹の茂みに、あるいは川の淵に、あるいは山の凹みに入り、七日間、林の根や実を食料にして生き存えよう>と。……かれらは、その七日後、草の茂み……山の凹みから出て、互いに抱き合い、共に通じます。安堵します。『ああ、人々よ、万歳! お前も生きてる』『ああ、人々よ、万歳! お前も生きてる』と。

七日間の大虐殺、刀の中劫を隠れてやり過ごした人々は、社会の再建をはじめます。そこで最初に人類が協議して決める道徳が「殺すなかれ」という不殺生の戒めなのです。以下、続けて経典を読んでみましょう。

 比丘たちよ、そこで、かれら人々はこのように考えるはずです。<われわれは、もろもろの不善の法を引き受けることによって、このように長い間、親族の滅亡を蒙ってしまった。われわれは善を行うことにしてはどうか。いかなる善を行うべきか。われわれは、殺生から離れることにしてはどうか。この善き法を引き受けて行くことにしてはどうか>と。かれらは、殺生から離れます。この善き法を引き受けて行きます。かれらはもろもろの善きほうを引き受けることによって、寿命が増し、容色も増します。その寿命が増し、容色も増すため、寿命が十歳の人間も、その子は寿命が二十歳になります。


このようにして、人類は道徳的な生き方を徐々に回復することによって、徐々に寿命が伸び、社会も安定していくと言います。そして、人類の寿命はふたたび八万歳まで延びます。しかし、しかし、八万歳まで寿命が延びた人類に、三つの病、すなわち欲求(渇愛)、断食(空腹感など)、老い(老化)というが起こるはずだと言われます。


このタイミングなのですね、弥勒菩薩がトゥシタ天から降誕し、修行して完全なる覚りを開いて弥勒仏陀となるのは。

 比丘たちよ、人間の寿命が八万歳のとき、メッテッヤという世尊が、阿羅漢として、正自覚者として……世界に現れるはずです。たとえば、現在、私が、阿羅漢として、正自覚者として、……世界に現れているようにです。*3

つまり、人類の寿命が八万歳まで延びた絶頂期、しかし欲求・断食・老いという微かな陰り*4が自覚され始めたところで、仏陀が説く「無常」という真理が人々に理解される可能性も現れるということなのでしょう。

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仏陀が現れるための社会的条件

ここまで、『転輪聖王獅子吼経 cakkavattisiihanaada-suttanta』の主要部分を駆け足で読んでみました。初期経典に出てくる「弥勒」の伝承は、現代日本で喧伝される『仏陀再誕』と何の関係もありません。歴史上、社会不安が広まるたびに東アジアでは弥勒下生を喧伝する扇動家や革命家が湧き出ましたが、それらはすべて、釈尊に由来する仏教経典とは無関係の代物であり、弥勒(メッティヤ)というキャラクターから妄想を膨らまして創作した偽経に拠った悪質なデマに過ぎなかったのです。


弥勒菩薩は、人類が自業自得で招いたハルマゲドン的な危機を乗り越えてから、長い長い年月をかけてその寿命を極限まで延ばせるほどに安定した社会を構築した後に、それでも避けられない「無常」という真理を人類に教えるための「教師」として現れると言われています。


釈尊滅後の五十六億七千万年後に現れる救世主、という常套句からはちょっと推し量れませんが、弥勒(メッティヤ)であれ釈尊であれ、仏陀が出現するには、それなりの社会的条件が不可欠なことが、この経典から読み取れると思います。その条件とは、カルト宗教のデマゴーグたちの叫びとは裏腹に、ハルマゲドン的状況からはほど遠いものなのです。*5

「不殺生」は人類共存のための道徳

もうひとつ、いかにも仏教的な寓話だなと思う面白いポイントがありました。七日間の大虐殺、刀の中劫を隠れてやり過ごした人類が、社会再建のために協議して定めた最初の道徳が「殺すなかれ」という不殺生の戒めだというくだりです。「殺すなかれ」という戒めは、決して「神」から命令されて守るものではないのです。人類が共存して生きていくために必要な、みなが納得ずくで守るべき基本的な道徳なのです。わざわざ仏陀から言われるようなことですら、ないのです。


それなのに、隣国の核ミサイルの脅威を煽って、人間同士に敵愾心を植え付けようとする宗教家って一体……。人間を一刻も早く「寿命十歳」の苦しみに追い込みたいんでしょうかね?

楳図かずおは天才

だらだらと余談になりますが、twitterの予告でも触れましたが、「人類の寿命が十歳になる」というおぞましい未来描写は、楳図かずおの長編マンガ『14歳』や短編「Rojin」に生々しく描かれています。

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「Rojin」は、人間の寿命が縮み、みな二十歳で死んでしまう世界で五歳の子供が穴に落ちた「老人」と初めて出会う、という奇妙な物語。いくつかの楳図アンソロジーに収録されていますが、ちょうど『転輪聖王獅子吼経 cakkavattisiihanaada-suttanta』を通読した直後に一読して、強い衝撃を受けたことを覚えています。


未見なので断言できませんが、『仏陀再誕』は仏典もろくに読んでいない(自分が言ったことも忘れている?)自称仏陀とその家族がつくった絢爛豪華で凡庸な作品のようです。一方、楳図かずお先生は、同じく仏典はろくに読んでいないかもしれませんが、釈尊の語った世界観に肉薄するかのような超絶無比の作品世界をいくつも構築しています。それは楳図かずお先生が天才だからです。


追記:
現代の宗教にまつわる「文学」が、先行する諸作品からどれだけ普遍的なエッセンスを汲み取り得ているか、たとえ特定の聖典を出展としていなくても、過去の優れた作品と共鳴しうる質を保っているか、ということを検証する仕事が「批評」です。批評によって(教えの)原理的な正しさ云々は断定できないによせ、上手、下手くらいは判断できるものです。


『仏陀再誕』という物語は、先行する仏教伝承から、俗情を煽るいい加減なディテールを引っ張っているだけで、思想的にはなんら見るべきものがないようです。


楳図かずおは、初期仏典に説かれた、しかし大部分の凡人は気づかなかった、根源的な「生存にまつわる恐怖」のエッセンスを見事に汲み上げることに成功しています。


それは稀有なことです。彼が天才と称えられる所以でしょう。(追記ここまで。コメント欄から移動)


『仏陀再誕』は弥勒(未来仏)とも無関係。楳図かずお先生は天才。この当たり前の事実を再確認したところで、本稿は終わりにしたいと思います。長文お読みいただきありがとうございました。


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*1:楳図かずお「Rojin」[asin:4091793827:title]より

*2:猟師が獲物の鹿を見て抱くような気持ち

*3:ここまで引用すべて、片山一良『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇1[asin:4804312110]』

*4:身体を持つ生命である限り、それらは決して避けられない「病」である。ただ寿命が延び続ける局面ではそれが自覚されにくい。

*5:釈尊が降誕した当時のインドも、都市国家が高度に発達して進取の気質が尊ばれる活気あふれる社会だった。