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様々な菩薩の奇跡と、ほんとうにすごい“ブッダの十八番”

『希有未曾有法経』(パーリ中部123)という古いお経があります。この世で仏陀となる菩薩が出生する際に現れる、17の奇跡的な瑞祥(希有未曾有法)を列挙した経典です。

前回紹介したこの『希有未曾有法経』(パーリ中部123)について、もう少し読んでみたいと思います。


原始仏典〈第7巻〉中部経典4

原始仏典〈第7巻〉中部経典4


ご説明したとおり、17の奇跡的な瑞祥(希有未曾有法)はほとんどが神秘的な内容になっています。しかし実際にこの「如来の希有にして未曾有の法」を「(釈尊から)面前でお聞きし、面前でお受けしている」と前置きして話しているのは、ほとんどアーナンダ尊者なのです。釈尊はそれを全部聞いてからちょこっとコメントするだけ、というのがミソです。


『希有未曾有法経』でアーナンダ尊者が語った項目は、釈尊が過去七仏の伝承について語った別の経典(大本経 パーリ長部14)ではヴィパッシー仏陀が現れた際の奇瑞として説明されています。ヴィパッシー仏陀が菩薩として生まれた際の17の瑞生は、他のブッダにも共通して起こる、という説明です。ここでも、釈尊は直接自分のことを詳しく語っていない、というのがミソだと思います。


では、以下「如来の希有にして未曾有の法」17を列挙してみましょう。

  1. 菩薩は念をそなえ、正知をそなえ、トゥシタ天の身に生まれ変わった。
  2. 菩薩は念をそなえ、正知をそなえ、トゥシタ天の身から没し、母胎に入った。
  3. 菩薩は念をそなえ、正知をそなえ、トゥシタ天の身から没し、母胎に入ると、神々をふくむ、魔をふくむ、梵天をふくむ世界に、沙門・バラモンをふくむ、天・人をふくむ衆の中に、無量の広大な光が、神々の威神力を圧倒して、現れます。障りもなく、覆いもない、暗黒の、黒闇の、かの世界の中間をも、また、あれほど大神力がある、あの月や太陽でさえ光を及ぼしえないところにも(注:ブラックホール?)、無量の広大な光が、神々の威神力を圧倒して、現れるす。また、そこに生まれかわっている生けるものたちも、その光によって、<友よ、他の生けるものたちもここに生まれかわっているらしい>と、互いに確認し合う。また、この一万の世界が、震え、震え動き、揺れ動きます。そして世界に、無量の広大な光が、神々の威神力を圧倒して、現れる。
  4. 菩薩が母胎に入っているとき、<人であれ、非人であれ、いかなるものも、かの菩薩と菩薩の母を害してはならぬ>と、四天子が守護するために、四方に接近する。
  5. 菩薩が母胎に入っているとき、菩薩の母は、自然に戒をそなえ、殺生を離れ、盗みを離れ、邪淫を離れ、妄語を離れ、怠惰の原因となる穀酒・果酒を離れている。
  6. 菩薩が母胎に入っているとき、菩薩の母には、もろもろの男性に対して、妙欲を伴った思いが起こることはない。また、菩薩の母は、心の染まったいかなる男性にも、征服されることがない。
  7. 菩薩が母胎に入っているとき、菩薩の母は、五種の妙欲を得る者となる。彼女は、五種の妙欲を与えられ、そなえ、楽しむ。
  8. 菩薩が母胎に入っているとき、菩薩の母には、いかなる病いも起こることがない。菩薩の母は、安らかで、身体の疲労がない。また、菩薩の母は、胎内の菩薩が大小すべての四肢をそなえ、感覚器官に欠けるところがないのを見る。
  9. 菩薩が生まれて七日のうちに、菩薩の母は亡くなり、トゥシタ天に生まれかわる。
  10. 他の女性たちは九ヶ月か十ヶ月で胎児を母胎から運び、出産するが、菩薩の母は、けっしてそのように菩薩を出産することがない。菩薩の母はちょうど十ヶ月で菩薩を母胎から運び、出産する。
  11. 他の女性たちは、坐って、あるいは臥して出産するが、菩薩の母は、けっしてそのように菩薩を出産することがない。菩薩の母は、立ったまま、菩薩を出産する。(注:右脇から生まれるということはない)
  12. 菩薩が母胎から出るとき、初めに神々が、後に人々が受け止める。
  13. 菩薩が母胎から出るとき、菩薩は大地に触れることがない。四天子がかれを受けとめ、<王妃よ、お喜びください。あなたのお子さまは、大威力をそなえて、お生まれになりました>といって、母の前に置く。
  14. 菩薩が母胎から出るとき、清らかなままに――水に汚されず、粘液に汚されず、血に汚されず、いかなる不浄物にも汚されず、清浄に、清らかに、出る。
  15. 菩薩が母胎から出るとき、二つの噴水が空中から現れる。一つは冷たいもの、一つは熱いものであり、それによって菩薩のための、また母のための水仕事がなされる。
  16. 菩薩は生まれるとただちに完全な両足をもって大地にしっかりと立ち、北に向かって七歩、交互に進み、白傘がさし掛けられると、あらゆる方角を眺める。そして、<私は世界の第一人者である、私は世界の最年長者である、私は世界の最勝者である、これは最後の生まれである、もはや二度と生存はない>と堂々たる言葉を語る。
  17. 菩薩が母胎から出るとき、神々をふくむ、……無量の広大な光が、神々の威神力を圧倒して、現れる。

これに対して釈尊は、「それでは、アーナンダよ、そなたはこの如来の希有にして未曾有の法をも受持しなさい」として、以下のことを述べます。

ここに如来には、もろもろの受(vedanaa)が、生じるとおりに知られます。現前するとおりに知られます。滅没するとおりに知られます。もろもろの想(saJJaa)が、生じるとおりに知られます。現前するとおりに知られます。滅没するとおりに知られます。もろもろ考え(vitakkaa)が、生じるとおりに知られます。現前するとおりに知られます。滅没するとおりに知られます。

一切の存在を解脱した仏陀(如来)は、煩悩という汚れたフィルターで事実を捻じ曲げることなく、現象をあるがままに認識(如実知見)できるのだ、という意味でしょう。


「神話伝説を膨らませるのもいいけど、ほんとうに大切なことはこれだよ」と莞爾として語りかける、釈尊のユーモアが感じられるような一節です。初期仏教経典で検証不能な神秘的な記述がされる場合は、必ずこのように文章の品格を保つ工夫がなされているのです。


聖人が生まれるときに奇瑞があるというのは古今東西の宗教文献に認められることです。現代人の限られた知識だけでむきになって否定する必要はないし、また、むきになって盲信する必要もないでしょう。


しかし、上記の17項目には、いくつか現代的な解釈が可能な項目もあります。

6.菩薩が母胎に入っているとき、菩薩の母には、もろもろの男性に対して、妙欲を伴った思いが起こることはない。また、菩薩の母は、心の染まったいかなる男性にも、征服されることがない。

14.菩薩が母胎から出るとき、清らかなままに――水に汚されず、粘液に汚されず、血に汚されず、いかなる不浄物にも汚されず、清浄に、清らかに、出る。

9.菩薩が生まれて七日のうちに、菩薩の母は亡くなり、トゥシタ天に生まれかわる。

といった項目は、仏伝の編纂者が、如来の清浄さを守るためにつくったと推理することは可能です(もちろん、テーラワーダ仏教諸国では、この17項目を疑いなく信じていますが……)。つまり菩薩が胎内にいるときに母親が性行為を行うことはないし、出産に伴って菩薩が汚されることもないし、菩薩が生まれたのちに、その母胎となった母親が再び性行為をして妊娠することもない、と強調することで釈尊の清浄性を強調しているのです。


しかしマーヤー夫人が産後の病で亡くなったことは「希有未曾有法」と言うよりは当時は珍しくなかった現実ではないでしょうか? 釈尊がご自身の生い立ちを事実として語ったことが、いつの間にか、希有未曾有な出来事として数えられることになった可能性もあります。

11.他の女性たちは、坐って、あるいは臥して出産するが、菩薩の母は、けっしてそのように菩薩を出産することがない。菩薩の母は、立ったまま、菩薩を出産する。

という項目は、後の世になると、「釈尊はマーヤー夫人の右脇から生まれた」という神話にまでエスカレートします。ただこれも、野外で産気づいたマーヤー夫人を、随行していたであろう産婆さんか主治医が、母胎に負担が少ない立位で分娩させたという事実を示すに過ぎないと思います。時代が変わって立位での出産ということが廃れたのち、「希有なこと」として取り入られたと考えたほうが、現代人にとっては合理的でしょう。


その他の瑞祥については、「そのように伝えられている」と受け取っても、精神的なモヤモヤはあまり生じないと思うので、スルーします(笑)。2009-09-23 『仏陀再誕』はやっぱりあり得ない(「天上天下唯我独尊」の続き)で考察したように「菩薩が生まれていきなり話す」という出来事にしたって、釈尊の生涯を貫くモチーフは何かということを明確にするための設定と解釈すれば、個人的には腑に落ちる話です。



強調したいのは、この経典でお釈迦さまご自身が「如来の希有にして未曾有の法」として語られた項目は、

ここに如来には、もろもろの受(vedanaa)が、生じるとおりに知られます。現前するとおりに知られます。滅没するとおりに知られます。もろもろの想(saJJaa)が、生じるとおりに知られます。現前するとおりに知られます。滅没するとおりに知られます。もろもろ考え(vitakkaa)が、生じるとおりに知られます。現前するとおりに知られます。滅没するとおりに知られます。*1

だけ、ということです。


つまり、この「一切の現象をあるがままに観る」能力こそが、ほんとうにすごい“ブッダの十八番”*2なのです。こういう、かっこいい語り方ができるセンスこそ、一切の生存領域を乗り越えた「天(神々)と人間の師」たる仏陀の真骨頂ではないでしょうか?


そしてその項目こそ、釈尊が私たちに「各自で開発しなさい。開発して、苦を乗り越えなさい」と示された如実知見の智慧なのです。如来の奇蹟的な「希有未曾有法」にも、私たちに取りつく島は残されているのです。そのように法を伝えてくださったお釈迦さまは、ほんとうに素晴らしい先生だと思います。


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追記:2009/10/01 タイトルを変更しました。それに併せて本文も加筆しました。


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*1:ここまで引用はすべて、片山一良・訳『中部(マッジマニカーヤ)後分五十経篇〈1〉』大蔵出版[asin:4804312056]より

*2:日本語の「十八番」の語源として、念仏往生を請け合った「[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%95%AA:title=阿弥陀如来(になる前の法蔵菩薩)の十八願]」が挙げられる場合がある。仏教はすべての人々に開かれた、誰でも実践すれば結果を得られる教えである、という意味では、阿弥陀十八願も「希有未曾有法の十八番」を文学的に表現した教えだと、言えないこともない?