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佐々井秀嶺師、護国寺講演まとめ


2009年6月7日(日)午後、インド仏教復興運動の大導師であられる佐々井秀嶺師(東京)最終講演会「よみがえる仏教 インド仏教復興運動の今」に参加した。インターネット寺院「彼岸寺」主宰で開催された講演には、会場となった護国寺観音堂(本堂)に入りきれないほどの、約600名がつめかけた。


その動員数もさることながら、佐々井師の謦咳に接した人々が記したブログの文章から、参加者の心根を揺さぶった講演会の熱気がおのずと伝わってくるだろうと思う。以下、そのいくつかを紹介したい。

 佐々井秀嶺師の一時帰国にあわせて各地で行なわれている講演会。本日は東京護国寺にて、お話を聞きに行きました。日本にいながら、師の堂内を突き破るような声で『ブッダン・サラナン・ガッチャーミ…』とお唱えする姿を拝見できるとは全く思っていませんでした。いつかテレビで見たインドでの改宗式そのままのお姿でした。

インド仏教の信者は、ほとんどがカースト制度で一番下に属する不可触民の人達です。ヒンドゥー教徒ではカースト制度から抜け出すことができないので、仏教徒になり、そこで初めて人間として当たり前の権利を手に入れることができるそうです。ヒンドゥー教のカースト制度では、牛の命の方が不可触民の人の命よりも尊いのだそうです。
人を幸せにするのが宗教、人を差別するのが宗教ではないと話されていました。

インドでの出来事。
バラモンの人が乗っている車が人を轢いてしまった。
轢かれた相手が不可触民だった。
バラモンの人は、そのまま車を走らせたという。
不可触民だから、大丈夫だと。

命の尊さまでもカーストによって決められている社会構造になっている。

それに対して、立ち向かっていったのがアンベードカルであり、佐々井師なのであります。

▼竜樹に呼ばれる夢を見てインド滞在を決意したという佐々井師が「帰国」で見せてくれたのは、「生きた」仏教、今まさに創造されようとしている仏教の姿である。ひるがえって考えれば現代の日本で現実の民衆の苦悩に応え得る仏教とはどうあるべきか、現実の課題として突き付けられた思いがする。師はこう呼び掛けた。「闘う仏教徒になってください」

一番弟子と言われる高山龍智氏の紹介で、佐々井秀嶺師の最終講演がはじまった。

丹田奥深くからわき上がってくる佐々井導師の太い声は、会場に集まった人たちのそれぞれの心に響いたにちがいなかった。


宗派を超えて、日々の生活のなかに仏教を信仰する。

仏教とは、「心」
「すべての命あるもの慈しみ、愛する心」なのです・・

導師の熱い心が、確実に伝わった。

ジャイ・ビーム!
ジャイ・ビーム!
ジャイ・ビーム!

密かに“世界最高のパンクロッカー”と尊敬申し上げている、インド仏教界の武闘派長老・佐々井秀嶺師の講演会に行って来ました。(岡山出身の佐々井氏。甲本ヒロト氏とか岩井志麻子氏とか、岡山ってパンクと親和性が高い土壌なんでしょうか?)

いやぁ〜、超カッコいいギグ(説法)でした。
映画『全身小説家』とか、(ビリーさんが居た頃の)ギターウルフのライブとかも、あまりのカッコ良さに腹を抱えて笑ってしまったものですが、まさにそんな感じ。完全全面降伏です。

佐々木氏の話の中には心打たれることも多かった。そのエネルギーには敬服する。

しかしヒンドゥー教から仏教に改宗させるという言い方、また彼の教えにおいて瞑想は行われない。この点は、話の中での意味やその必然性は理解できるが、その本質的なところは、逆に理解してもらいたいと思うところもある。

またヴェーダ聖典においてはカースト制度について書かれているわけでなく、カーストは役割という点で書かれている。それを階級という制度にしたのはヴェーダ聖典そのものではなく、人間なのである。

瞑想は、佐々井氏のいう意味では不要であるという言い方はわかる。彼らの運動においては瞑想は不要である。しかし本質的な瞑想体験の質からいえば、体験者から見れば、不可欠な精神的体験を得る手段である。

これほど力強い声を発する人物にこれまでの人生で出会ったことがない。「三帰依文」「五戒」などを読む声はまさに獅子吠え。どこからこのエネルギーが出てくるのだろうか。インドに渡ってからの履歴を語るの背景には差別の重い現実がある。質疑応答でインド共和国憲法を起草したアンべードカル菩薩についていくつかの問いがあった。質問者は「読みましたが」というけれど、それは読書か研究のため。ところが佐々井師は、不可触賤民を救う激しい闘いのための読書だ。言葉を代えれば知ることは闘いと結びついたものであって、解釈のためのものではないということ。「生きることが座禅であり、真言なのです」という力強い語りにいささか戸惑いつつ、佐々井師にとっては現実を変革する道具としての仏教なのだと理解した。「信念、使命、自覚が行動の源」との言葉が染み入る。

万雷の拍手の中、講演は終了。その瞬間、力強さと緊張感に満ちていた師の言葉と表情は一変して穏やかなものに変わっていた。
イベントの全てが終了し、車で護国寺を立ち去られる直前にも「ありがとうございます、ありがとうございます」と、腰を低くして参加者の方々と握手を交わす(私も恐れ多くも握手させていただいた)。そして、用意された車を通り越して歩いて立ち去ろうとしてしまうという、お茶目(笑)な姿も見せてくれた。

おそらく今まで、日本の大寺院において、特定教団の組織的
動員もなく、一般の方々が五百名以上も集まり、最後は拳を
振り上げて「Jay!」の大合唱。こんなことはまさに前代未聞。
確実に、歴史が動き始めました。
その大きなうねりを引き起こした力はほかでもなく、護国寺へ
おいでくださった皆様ひとりひとりの、心です。

紹介したブログの中には、佐々井師に圧倒されつつ、異論や戸惑いを表しているものもある。それは私もそうだった。「なんだかすごいものを目の当たりにしている」という衝撃を受けるとともに、講演や質疑応答を通じて、佐々井師の仏教理解と私のそれの間にはかなりの隔たりがあることも自覚せざるを得なかった。おなじみのパーリ語三帰依五戒文を唱えながらも、いつものまったり穏やかな詠唱とのノリの違いに背中がゾヨゾヨかゆくなったりもした。


でもねぇ、やっぱり、すごいんですよ、佐々井師は。存在が。


三時間近くに及んだ講演会のしめくくりは、「(佐々井師は)冥想はやっていないのか?」という直球の質問への回答だった。私なりに咀嚼すると、以下のような内容だったと思う。曰く、


「アンベードカル菩薩が残した生前の写真には、彼が目をつぶって瞑想している写真は一枚も残っていない。彼は生涯にわたって、目を見開いて、人々の目を開かせ、インドの大地で活動に明け暮れて果てた。インドでも瞑想を教えている仏教者もいるが、そういうのをやっているのはバラモン階級の金持ち。自分には、現にカースト制度の迫害に対して戦っている人々に向かって、ようやく目を開いて立ち上がったインド下層民衆に向かって、また目をつぶって座れ、などと言うことはできない。瞑想というならば、インド仏教復興のためにしている自分の活動のすべてが瞑想であり、禅であり、行(ぎょう)である。云々。」


飢えている人には食事を、差別や迫害に苦しんでいる人々には連帯の手を、心を清らかにする行を求める人々には瞑想指導を、提供するのが仏教者の生き方であろうと思う。いくら瞑想が最高善であると言っても、邪命(非道徳的な生計、ひいては社会的差別の肯定)のうえに成り立つ正定(正しい瞑想)などあり得ないのだから。



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