阿羅漢も迷うこと(ミリンダ王の問いより)


『ミリンダ王の問い』(milindapañhā)というパーリ仏典に、以下のようなナーガセーナ長老とミリンダ大王のやり取りが載っている。

大王「尊者よ、(阿羅漢は)迷うでしょうか?あるいは迷わないでしょうか?」


長老「大王よ、ある事柄については迷い、ある事柄については迷わないでしょう」


大王「尊者よ、どのようなことがらについては迷い、いかなる事柄については迷わないのでしょうか?」


長老「大王よ、まだ知られていない技術の領域、あるいはかつて行ったことのない地方、あるいはかつて聞いたことのない名称・施設については迷うでしょう」


大王「どのような事柄については迷わないのでしょうか?」


長老「大王よ、(悟りの)智慧により、『無常なり』『苦なり』『無我なり』とされた事柄については迷わないでしょう」


(『ミリンダ王の問い』第一篇第二章)

大学時代に読んで、ずーっと頭に残ってきた言葉。思い出すたびに楽しい気分になっていたのだが、なぜだかよく分からなかった。いまはよく分かる気がする。


たとえ相手が阿羅漢の聖者であっても、「まだ知られていない技術の領域、あるいはかつて行ったことのない地方、あるいはかつて聞いたことのない名称・施設」について、迷って困ることがあるのだ。


理性を持って考えれば当たり前のことだが、その当たり前が分らずに、私たちはしばしばためらい、機を逸してしまう。


阿羅漢は迷いの生存から解脱している。しかし、阿羅漢もまた迷うことがある。それは何かと、明確に説かれているくだりだ。


最高の聖者が日常の雑事でいろいろと困っている時、凡俗の私たちでもその方のお役に立てるのだ。これは、素晴らしい福音ではないか。


思い出すたびに、こころが明るくなる仏典の言葉。

ミリンダ王―仏教に帰依したギリシャ人 (Century Books―人と思想)

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