永源寺事件と不飲酒戒

いつも仏教史に関する圧倒的な知識を駆使したエントリを拝読させていただいているkumarinさんが、滋賀県東近江市臨済永源寺派総本山「永源寺」で6日夜に起きた修行僧同士の飲酒障害致死事件について書かれている。

ご自身も日蓮宗寺院に生れ、臨済宗の僧籍を持たれているというkumarinさんのやるせない思いが伝わってくる記事だ。もしかしたら場違いかもしれない、という気持ちを抱きつつ、以下のようなコメントをした。

ajita 2009/03/12 02:17
こんにちは。


仏教徒とは基本的に、三宝に帰依して五戒を守ろうと努力する人々のことだと思います。


守れないことがあるのは当たり前ですが、いつでも懺悔しつつ、守ろうと努力することで、徐々に人格が向上していくと思います。


自分のエゴにあわせて法を捻じ曲げても(不飲酒戒を不過度飲酒戒に変えたりしても)、それはエゴを満足させるだけで、人格は一ミリも向上しません。


「(仏祖の)戒を守る人は、戒に守られる」ということは厳然たる事実です。「念戒」という冥想もあります。自らが受けた戒を念ずるだけで一種の禅定に達することができるというものです。(パーリ増支部一集・他)


五戒を守るということは、他者から信頼されるに足る人間として自己確立しようという、利他心の表れとも言えます。空海は雨乞いの願文で「国十善を行ひ、人五戒を修すれば、五穀豊登し万民安楽なり。」という経文を引いています(性霊集巻第六)。人々が五戒を守ることは社会を良くすることに繋がると、大乗仏教の祖師方もご存知だったわけです。


僧侶が比丘戒を守ることは、大乗仏教の根幹にある社会貢献に不都合がある、ということは理解できなくも無いのですが(でも韓国や台湾の僧侶は比丘戒を守りつつ、ものすごいスケールで利他行をしていますよ)、五戒を無視する、あるいは軽んじるということは即ち、仏教を通じて社会をよくしようという努力を放棄しているに等しいことです。


たとえ自分が酒飲みであっても、僧侶たるものは五戒を守るべきことを説く義務があります。それが仏祖の法だからです。、


釈尊は「自分が法を実践せず、他人に法の実践を勧めることもしない者」のことを「両端が燃えて中間に糞が塗られた棒のごとく」役立たずだとおっしゃっています。自分が法を実践していなくても、他者に法の実践を勧める人は、それよりましな人材として認めておられます。(パーリ増支部4集95〜99)


それと、自分が酒を飲むのは単純に自分の脳を破壊するだけで衆生を害すわけではない「自己責任」の範囲ですが、他者に酒をすすめることは、他者の智慧の芽を摘む行為なので、立派に「人権侵害」「罪」の範疇に入ります。ハリヴァルマンも、

若し人が酒を飲まば則ち不善の門を開く、是の故に若し人をして酒を飲ましむれば則ち罪分を得、能く定等の諸もろの善法を障うるを以ての故なり。
(成実論 五戒品第一百九)

と論じています。伝統仏教のお坊さんも、いまさら五戒など守れない、酒はどうしても止められない、というならばせめて「他者に酒を飲ませるなかれ」という戒めを徹底してはいかがでしょうか? 一人で飲むのであれば、少なくとも酒で他人を傷つけたり殺したりという危険はありません。


宴席に酒を飲まない(飲めない)人がいた場合、僧侶の側に座れば少なくとも無理に酒を薦められることはない、という安心感を与えることもできます。


そのように僧侶が「戒」を意識して生活するように努めれば、日本仏教もあっという間に復興すると、私は思います。


お幸せでありますように。

内容的には、いぜんこちらのブログで書いたことの繰り返しである。私には、この事件の構造は単純なものに思える。それは、「戒を守らないものは戒に守られない」という至極当然な単純さである。

不飲酒戒を「不過度飲酒戒」にかえても、それは戒を守ったことにならない。仏教の五戒にあるのは、あくまで不飲酒戒である。これを捻じ曲げるのは、教えの捏造・曲解である。三毒を「怒ること・妬むこと・愚痴ること」とすると同じい。事実は事実として認めた上で、自分がどうふるまうべきかと決めればいいだけのことだ。

私は五戒を守ることにしているし、日ごろ接しているテーラワーダ仏教徒(国籍を問わず)は、酒を飲まないことが当たり前である。酒で失敗するという心配、恐れから解放されるのは、とても気楽なことである。戒に守られて生きることは楽しい。

ブッダの幸福論 (ちくまプリマー新書)

ブッダの幸福論 (ちくまプリマー新書)

日本仏教は酒と骨がらみで、アルコールに依存している僧侶も多いことは承知している。彼らを倫理的に指弾したところで始まらない。では、飲酒に関して、彼らにもすぐに実践できることは何かとも考えてみた。それは、

  1. 不飲酒戒を含む「五戒」を仏教徒に通じる戒として認めること
  2. 決して他人に酒をすすめないこと

の二つだと思う。

自分が酒を飲みたいがために、または一般人に媚びるために、僧侶が五戒を勝手に捻じ曲げることは、仏教にとってまさに自殺行為である。また、自分が酒を飲むとしても、決して他人にそれをすすめないという態度を貫けば、ジリジリと人格が陶冶されていくだろう。自分の不善行為に他人も巻き込んで共犯関係をつくりたいという衝動は、人間のもつもっとも度し難い愚かさの一つだろうから。


↓ランキングが面白いことに……↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ

〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜