村上春樹と仏教の「怨親平等」

作家・村上春樹氏がイスラエルの権威ある文学賞エルサレム賞の授賞式で述べた英語スピーチが随所で話題になっている。「壁と卵」というキーワードをめぐっての議論が目に付いたが、ざっと目を通しただけで済ましていた。

ところが昨日、Y師と雑談している途中、村上氏が件のスピーチで、自らの父について「パートタイムの僧侶をしていた」と語っていたことを教えてもらい、あらためて全文を読んでみた。

スピーチの全文は、すでに様々な方が訳出されている。

My father died last year at the age of 90. He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest. When he was in graduate school, he was drafted into the army and sent to fight in China. As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the Buddhist altar in our house. One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the war.

私の父は昨年90歳で死にました。父は教員退職後、お坊さんのアルバイトをしていました。父は大学院在籍時代に徴兵され、中国に送り込まれました。戦後に生まれた子どもとして私は、父が毎日朝食の前に仏壇で長く心に染みるお経を唱えていたのをよく目にしたものでした。私は父に一度理由を聞いたことがあります。父の答えは、戦争で死んだ人たちの供養ということでした。

He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike. Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.

父は、死者すべてを供養するのであって敵も味方も同じだと言いました。仏壇を前にした父の背を見ながら、私は私なりに、彼を取り巻く死の影を感じ取りました。

My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.

私の父は、私がけして知り得ないその記憶とともにこの世を去りました。なのに、父に寄り添い潜む死というものの存在は私の記憶に残っています。それは父から継いだ数少ないものですし、もっとも貴重なものの一つです。

極東ブログの訳文を引かせてもらった。村上氏が “He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike. 父は、死者すべてを供養するのであって敵も味方も同じだと言いました。”というのは、端的に言えば、仏教の「怨親平等」の思想である。

大正蔵検索で調べていただければ分るが、「怨親平等」は漢訳仏典に頻出する言葉だ。goo四文字熟語辞書(三省堂提供「新明解四字熟語辞典」より抜粋)にも採録されている。

敵も味方も同じように処遇すること。恨み敵対した者も親しい人も同じように扱うこと。▽もと仏教語で、敵味方の恩讐おんしゅうを越えて、区別なく同じように極楽往生させること。「怨親」は自分を害する者と、自分に味方してくれる者の意。

このような語義説明に、怨親平等という語をめぐる思想の変遷が込められている。
参考までに、中村元『佛教語大辞典』(東京書籍)の説明も載せておく。

仏教語大辞典

仏教語大辞典

敵も味方もともに平等であるという立場から、敵味方の幽魂を弔うこと。仏教は大慈悲を本とするから、我を害する怨敵も憎むべきでなく、我を愛する親しい者にも執着してはならず、平等にこれらを愛憐する心をもつべきことをいう。日本では戦闘による敵味方一切の人畜の犠牲者を供養する碑を建てるなど、敵味方一視同仁の意味で使用される。(136p)

怨親平等とは「佛本行集経」「過去現在因縁経」などの本生経(ジャータカ)に用いられていることで分かるように、如来の大悲を体得するべく励む菩薩の修行であった。大乗菩薩道を宣揚する言葉として「華厳経」「大乗涅槃経」などでも盛んに使われた。

日本の仏教寺院では、敵味方の戦死者供養のため、中世以降、数多くの怨親平等碑が建てられた。鎌倉円覚寺が、未曽有の国際戦争であった「元寇」における敵味方の死者を供養するために建立されたことは比較的よく知られているだろう。

ただ、(怨親平等は)廃仏毀釈が完成した日本社会ではほぼ失われた心性、少なとも、戦死者の追悼よりは「顕彰」を求める風潮によって社会の周辺に追いやられつつある思想であるかもしれない。仏教僧侶でも、この言葉自体を知らない人はいる。

私は村上春樹の文学について語る言葉を持っていない。しかし、彼がセム系一神教の中心地で、仏教(あるいは仏教的なるもの)の真髄を語ったことに敬意を表したい。

ゼロの楽園―村上春樹と仏教

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