五戒を守る僧侶の会(不飲酒戒を考える)

法友の木下全雄師(高野山真言宗)が代表となって、「五戒を守る僧侶の会」が発足した。


一. 私は故意に生き物を殺しません(不殺生戒)
二. 私はどのようなものも盗みません(不偸盗戒)
三. 私は夫婦以外の性的関係を持ちません(不邪淫戒)
四. 私はいつわりを語りません(不妄語戒)
五. 私は酒や麻薬などを摂取しません(不飲酒戒)

言うまでもなく、五戒とは……在家仏教徒の戒である。日本仏教の僧侶は事実上「無戒」であるという現状認識をもって、まず仏教徒の基本的な戒(学処)である五戒を守るところから、日本仏教再生を果たしていこうという集いである。全雄師は次のように述べる。

仏祖のお釈迦様は「人間らしい生き方」の道標として、「五戒を守る生き方」を示して下さいました。
(中略)
本来はこの「五戒を守る生き方」は、個々人が自慢する事なく、ひそかに、自分の生き方の指針として「自発的に、しかも徹底的に守るもの」でしょう。しかし「人間らしい生き方」を見失った大人が増えているこの日本では、「五戒を守る生き方実践」の大切さを社会に向けて発信する事は、私達日本の大乗仏教僧侶の役目であると思うのです。

さらに、様々な宗派に分かれている日本の大乗仏教ですが、その生みの親は「お釈迦様」です。そういう意味で、このお釈迦様のお教えの下に集まる事は、日本の全仏教徒の力を一つにする事にもなります。

それはこの日本の未来を、明るく変えて行く力があるはずなのです。

この志は尊いものだと思う。はなむけではないが、スッタニパータに説かれたお釈迦様の「五戒のススメ」を引用したい。(正田大観訳)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

394  〔第一に〕生き物を殺さないように。そして、殺させないように。また、〔生き物を〕殺している他者たちを認めないように。世における、動かないものたち、そして、動くものたち、〔すなわち〕一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて〔害さずにいるように〕(不殺生戒)。
395  それから、〔第二に〕目覚めている弟子は、どこにあっても、何であれ、与えられていないものを遍く避けるように。〔他者をして他者から〕奪わせないように。奪っている者を認めないように。一切の与えられていないものを遍く避けるように(不偸盗戒)。
396  〔第三に〕識者は、燃える火坑を〔避ける〕ようにして、梵行ならざること(淫欲の行為)を遍く避けるように。また、梵行をできずにいる者は、他者の妻を犯さないように(不邪淫戒)。
397  〔第四に〕あるいは、集会に出たとして、あるいは、衆のなかに入ったとして、独りでいて、ただの一者[ひとり]にたいしても、虚偽を語らないように。〔他者をして虚偽を〕語らせないように。〔虚偽を〕語っている者を認めないように。一切の事実ならざることを遍く避けるように(不妄語戒)。
398  また、〔第五に〕酔う飲み物(酒)を嗜まないように。この〔不飲酒の〕法(教え)を喜ぶ在家の者は、それ(飲酒)について、『狂気という終極あるもの』と知って、〔他者に酒を〕飲ませないように。〔酒を〕飲んでいる者を認めないように。
399  なぜなら、愚者たちは、〔酒による〕驕りから、諸々の悪を為し、さらにまた、他の人たちをして、諸々の怠りある〔行為〕を為さしめるからです。愚者たちに欲せられ、〔世の人々を〕狂気と迷妄ならしむ、この、善ならざる場所(処:領域・範囲)を避けるように(不飲酒戒)。

(スッタニパータ,第二章 小なるもの,第十四経 ダンミカ 訳:正田大観*1

正田先生の日本語訳は逐語訳なので決して読みやすいものではないが、このいくつかの偈に「五戒」の要点が見事に説かれていると思う。

五戒とは決して、個人的かつ消極的な訓戒にとどまらない。「生き物を殺さないように。そして、殺させないように。また、〔生き物を〕殺している他者たちを認めないように」というブッダの言葉に明らかなように、「五戒」の教えは人間社会を道徳的に進歩させようという積極性・社会性を備えていたのである。

「五戒を守る生き方実践の大切さを社会に向けて発信する」という全雄師の志は、まこと釈尊の教えの真意に適っているのだ。

日本で理解されにくい「不飲酒戒」の意味については、上に引いたスッタニパータ399偈で懇々と説明されているが、スマナサーラ長老の次の説明も参考になるだろう。

五戒を「戒論」的に分析すると、二つに分かれる。

  1. 生命との関係を定めた戒:不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語
  2. 自己破壊を防ぐ戒:不飲酒

1と2は土台と屋根のような関係である。家を建てる時は土台から建てなければならない。その意味では不殺生〜不妄語までの四戒が先にある。

しかし、屋根が無ければ家とは言えない。飲酒によって自己破壊すれば、生命との関係もすべて崩れてしまう。よって、五戒はひとつのセットとして実践することが勧められている。云々。*2

ブッダの幸福論 (ちくまプリマー新書)

ブッダの幸福論 (ちくまプリマー新書)

*3

仏教の「戒論」において、飲酒はそれ自体が「衆生を悩ます」わけではないから、「実罪」ではないとされる。ただ自己破壊に陥るのみである。しかし飲酒は「罪の因」となる。

若し人が酒を飲まば則ち不善の門を開く、是の故に若し人をして酒を飲ましむれば則ち罪分を得、能く定等の諸もろの善法を障うるを以ての故なり。
(成実論 五戒品第一百九*4

新国訳大蔵経―毘曇部〈7〉成実論(2)

新国訳大蔵経―毘曇部〈7〉成実論(2)

もし人が酒を飲めば「不善の門」を開く。(理性を鈍らせる酒は)禅定などの諸々の善法を妨げてしまう。ゆえに、他人に酒を飲ませることは(他人の向上をスポイルする)罪である。

酒を飲む飲まないは自己責任だとしても、他人に酒を飲ませる行為(飲酒を強要したり、勧めたりすること)は、相手の尊厳をふみにじる、明確な「罪」なのである。自身は五戒を受けないにしても、せめて他人に酒を勧めるという「罪」だけは犯してはならないことを、仏教徒ならば(否、他者を尊重する人間であるならば誰でも)肝に銘じるべきであろう。

そういえば、全雄師の属する日本真言宗の祖師、弘法大師空海は雨乞いの願分のなかで、次のような経文を引いている。

国十善を行ひ、人五戒を修すれば、五穀豊登し万民安楽なり。*5

実際に五戒を受けてみたい方は、こちらのパーリ原文・音声ファイル・日本語訳を活用してほしい。在家の場合、僧侶や適当な師がいないときに自分一人で持戒を誓うことも、立派な「受戒」として認められるのである。*6

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〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜

*1:[http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070317.html:title=スッタニパータ和訳 正田大観]

*2:[http://d.hatena.ne.jp/ajita/20081214:title=ひじる日々 2008-12-14 五戒について/村上真完博士]

*3:『ブッダの幸福論』(ちくまプリマー新書)幸福に生きるための処方箋として「五戒」についてやさしい言葉で説明されている。

*4:[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1646_,32,0300:title=大正蔵検索の結果ページ]

*5:性霊集巻第六

*6:Upāsakajanālaṅkāra