『不干斎ハビアン』をめぐって

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)

釈徹宗『不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者』 (新潮選書)読了。新潮社Kさんから献本を賜った。山本七平が「最初の“日本教徒”」として再評価したハビアンの数奇な人生(禅僧→キリシタンの論客→棄教→反キリシタンの論客)をたどり、その著書である「妙貞問答」「破提宇子」を稀代の比較宗教論として読みなおしていく。内容については、編集者による紹介ページに詳しい。

著者の宗教学者としての薀蓄も随所で披露されており、不干斎ハビアンを例にした比較宗教学概説といった趣もあって楽しい。個人的に、笑ってしまったのは以下のくだり。

 宗教を比較して論じる際、「影響比較」と「対比比較」は現代においてもしばしば混同されている(この「影響比較」と「対比比較」の呼称については、拙著『親鸞の思想構造―比較宗教の立場から』を参照)。「影響比較」とは「比較するものの間に考証関係が実際にある場合」を指し、客観的かつ歴史的研究として成立する事例である。これに対し、「対比比較」とは、「比較するものの間に考証関係が実際に無い場合」の比較であり、類似点を軸にしてそこから一般的な法則を導き出すという手法だ。前者の手法は主にフランスで確立し、学問としての存在理由は大きいが、研究範囲が狭いという難点がある。後者の手法は普遍志向の強いアメリカで発達し、発想としては面白いが学問としては成立し得ないものが多い。ちなみに日本では比較思想といえば、ほとんどが後者の立場である。(p.112-113 太字引用者)

ええーーーっ!これって仏教学方面の人たちが一生懸命やってきた営為を「君たちのそれぜんぶ意味なし芳一ですよ」と言ってるに等しいではないか。釈さん、ひ、ひどすぎる(でも、僕もそう思ってたけど)。

実際に「妙貞問答」「破提宇子」を論じるくだりになると、文語体の原文からの引用が多く、決して読みやすい本ではない。最終的にハビアンをスピリチュアル・ブームに沸く現代日本人と相通ずるメンタリティの持ち主として描く料理法もそれなりに面白い。ただそのアクチュアルに引き寄せたまとめ方が、ちょっぴりこじつけっぽい締まりのなさも際立たせてしまう。なぜだろうか? そこに著者の微妙な「逃げ」が嗅ぎ取れてしまうからではないかと、僕は思う。

浄土真宗の僧侶でありながら、客観的に宗教を分析する「宗教学者」の構えでものがたりをする著者の立ち位置には、どこかすわりの悪さが付きまとう。それが釈徹宗氏の持ち味でもあろう。であればなおさら、本書は首尾一貫「宗教的知識人論」としてまとめられるべきではなかったかと思うのだ。不干斎ハビアンの思想を「現代の宗教的個人主義」との相関という形で生ぬるく現代に還元するのではなく、著者の専門分野である「宗教学」批判という形での、自ら痛みを引き受ける形の自己言及に落とし込んでいくべきだったのではないか。折しも宗教学界のタレントである島田裕巳が、

『無宗教こそ日本人の宗教である』 (角川oneテーマ21)という確信犯的な「日本教」礼賛の本を出している。知識人としてオウム真理教事件の波をかぶって辛酸をなめた島田裕巳にして、到達した場所は不干斎ハビアンと寸分たがわない「日本教」全面肯定であった、という事実は興味深い。なぜそうなってしまうのか? 宗教学という学問が生成してきた「環世界」を切り裂く覚悟で、竿頭一歩を進む気概をもって、取り組んで欲しいテーマである。

日本教徒―その開祖と現代知識人 (角川oneテーマ21)

日本教徒―その開祖と現代知識人 (角川oneテーマ21)

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