仏教は終始一貫「自利利他」の教え

id:uumin3さんの

に対するコメント2通目。自利利他に関する「俗論」を排するために。

大乗仏教を作った人々の動機付けについては資料に基づいてどのように解釈してもよいと思います。しかしそのために、ありもしない「小乗」の特徴を捏造するのは如何なものでしょうか?

「仏教の流れ(20050719)」について、前のコメントで「一例」として挙げたところですが、

(大乗仏教では)まず「自利利他の教理」という主張がなされています。これに対して「小乗」は自己の救済に専心するものです。*1

というのはいわゆる「小乗」(uumin3さんは通歴史的に部派仏教全般として「小乗」の用語を用いておられるようなので、それに従います)の経典に照らして事実に反します。仏教は最初から「自利利他」を理想とする教えです。


uumin3さんは「公平さ」に興味がないと仰っていますが、自分の書いたものが事実か否かについては興味がおありではないでしょうか? 興味があると仮定して証拠を提示します。


証拠となるのは、パーリ経蔵の増支部4集95〜99(A4,95-99 和訳:南伝大蔵経十八巻増支部経典二,166-174頁)、及び、中部61アンバラッティカ・ラーフラ教戒経(M61 和訳:南伝大蔵経十巻中部経典二,204-214頁・他)です。

増支部4集95〜99の要約を示します。まず総論です。


比丘らよ、これら四種の人間が世の中に存在する。何が四種か。

  1. 自利のためにも行わず利他のためにも行わず、
  2. 利他のために行い自利のために行わず、
  3. 自利のために行い利他のために行わず、
  4. 自利のために行いまた利他のために行う。

(1)は「両端が燃えて中間に糞が塗られた棒のごとく」*2何の役にもたたない。(2)はよりましである。(3)はさらによい。(4)の自利利他を行う人間が最高である。


続いて個別の解説がなされます。

  1. は、自ら人格向上に役立つこと(以下参照))を何一つせず、他人に薦めることもしない人です。
  2. は、自ら貪瞋痴を克服する修行をしないが、他人にはしきりに修行を薦める人。或いは、自らは仏法をろくに学ばず理解もせず法を実践もしないが、流麗で美しい言葉を駆使する能力に優れ、法を説く人。或いは、自らは五戒を守らないが、他人には五戒を守ることを薦める人です。
  3. は、自ら貪瞋痴を克服する修行をするが、他人には薦めない人。或いは、自ら仏法をよく学び深く理解し法を実践するが、口下手で、積極的に人に法を説こうとはしない人。或いは、自らは五戒を守って清らかな生活をするが、他人に薦めることはしない人です。
  4. は、自ら貪瞋痴を克服する修行を行い、他人にも薦める人。或いは、自ら仏法をよく学び深く理解し法を実践し、かつ流麗で美しい言葉を駆使する能力に優れ、人に法を説く人。或いは、自ら五を守って清らかな生活をして、なおかつ他人にも五戒を守ることを薦める人です。


以上のように、釈尊は人間の生き方の理想を「自利利他」であると明確に説かれています。次善として、他人を導くことができないならばせめて自分は道を歩むことを薦めています。さらに、もし自分がだらしない性格であっても他人に善悪を示すことを薦めます。そして、それに偽善だなんだとケチをつけて何もしない人のことは、「最低の役立たず・人間のクズ」と非難されたのです。

原始仏典〈第5巻〉中部経典2

原始仏典〈第5巻〉中部経典2

次に、中部61アンバラッティカ・ラーフラ教戒経は、釈尊が実の息子であるラーフラ尊者に説かれた経典です。長いので肝心の部分だけ要約すると、


ラーフラよ、あなたが何かを行うとき*3は、それが自分のためになるか*4、相手のためになるか*5、皆のためになるか*6とチェックしなさい。
ラーフラよ、あなたが何かを行っている途中でも、それが自分のためになっているか、相手のためになっているか、皆のためになっているかとチェックしなさい。
ラーフラよ、あなたが何かを行った後にも、それが自分のためになったか、相手のためになったか、皆のためになったかとチェックしなさい。


つまり、仏弟子は、自らのおこないが「自利利他」の行為となっているかどうかを常にチェックすべきであると、釈尊が仰っているのです。これ自体が「気づき」の実践であり、智慧の開発のための修行です。


仏弟子の行いの基準について、釈尊は「自利利他」を理想とする立場から外れたことは仰っていません。管見では、初期仏教〜部派仏教が奉じる初期経典(漢訳阿含、パーリ・ニカーヤ)において、それ以外の教えを見出すことはできません。ですから、

(大乗仏教では)まず「自利利他の教理」という主張がなされています。これに対して「小乗」は自己の救済に専心するものです。

という一文は、虚言として捨てられるべきであると、断ぜざるを得ません。大乗仏教の「宗教改革運動」としての動機付けを説明したいのであれば、


「(大乗仏教は)当時の部派仏教が釈尊の「自利利他の教え」を忘れて「自己の救済」にのみに関心を向けていると批判した。」


とするのが妥当な表現と考えますが、如何でしょうか?

Sabbe sattaa sukhii hontu.

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〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜

*1:http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20090203

*2:そんなものどこに持っていっても材として使えないという喩え。お釈迦さまが仰る悪口はどぎつい。

*3:kāyena 身、vācāya 口、manasā 意のkammaṃ 行為 についてそれぞれチェックする

*4:atta 自分の byābādha,vyābādha 悩害 にならないか

*5:para 他者の……

*6:ubhaya 双方の……