三毒(三不善根)と十悪(十不善)

「仏教の三毒」である貪(むさぼり・瞋(いかり)・癡(痴・無知)について、初期仏教・部派仏教では「三不善根」という呼び方をするのが一般的だ。中部9「正見経」(MN-9,sammadiTThisutt)より、サーリプッタ尊者が十不善(十悪)と三不善根(三毒)について列挙したくだりを読んでみよう。

原始仏典〈第4巻〉中部経典1

原始仏典〈第4巻〉中部経典1

「友らよ、聖なる弟子が、不善を知り、不善の根本を知り、また善を知り、善の根本を知るとき、友らよ、これだけをもって、聖なる弟子は、正見のある者になり、その見は真直ぐになり、法に対して絶対的な信仰をそなえる者になり、この正法に到達する者になります。

 それでは、友らよ、何が不善でしょうか。何が不善の根本でしょうか。何が善でしょうか。何が善の根本でしょうか。友らよ、

  殺生は不善です。
  偸盗は不善です。
  邪淫は不善です。
  妄語は不善です。
  両舌は不善です。
  悪口は不善です。
  綺語は不善です。
  貪求は不善です。
  瞋恚は不善です。
  邪見は不善です。

 友らよ、これが不善と言われます。ではまた、友らよ、何が不善の根本でしょうか。

  貪は不善の根本です。
  瞋は不善の根本です。
  痴は不善の根本です。

 友らよ、これが不善の根本と言われます。ではまた、友らよ、何が善でしょうか。

  不殺生は善です。
  不偸盗は善です。
  不邪淫は善です。
  不妄語は善です。
  不両舌は善です。
  不悪口は善です。
  不綺語は善です。
  不貪求は善です。
  不瞋恚は善です。
  正見は善です。

 友らよ、これが善と言われます。ではまた、友らよ、何が善の根本でしょうか。

  無貪は善の根本です。
  無瞋は善の根本です。
  無痴は善の根本です。

 友らよ、これが善の根本と言われます。
 友らよ、聖なる弟子が、このように不善を知り、このように不善の根本を知り、このように善を知り、このように善の根本を知るとき、かれはすべてにわたり、貪という潜在煩悩を絶ち、瞋という潜在煩悩を除き、<私はある>という見のような慢の潜在煩悩を根絶し、無明を捨て、明智を起こし、現世において、苦の終わりを作る者となります。友らよ、これだけをもって聖なる弟子は、正見のある者になり、その見は真直ぐになり、法に対して絶対的な信仰をそなえる者になり、この正法に到達する者になるのです」と。
(片山一良・訳『パーリ仏典第一期1中部(マッジマニカーヤ)根本五十経篇I』pp.140-142)

日本でもなじみの深い「十悪」とその諸悪の根本として「貪・瞋・癡(痴)」が説かれている。

ちなみに十不善(十悪)のうち、殺生(生命を殺すこと)・偸盗(盗み,与えられていないものを取ること)・邪淫(違法な性行為,不倫,延いては五感の刺激に則を越えて淫すること)は身体の悪行為、妄語(嘘)・両舌(二枚舌,離間語)・悪口(粗暴な言葉,粗悪語)・綺語(無駄話,戯語)は言葉(口)の悪行為、貪求(異常欲,貪慾)・瞋恚(異常な怒り,害心)・邪見(因果法則の否定など悪行為を助長する見解を持つこと)は意の行為となる。

そのすべては貪瞋癡という汚れた不善のこころ(意)から起こるのである。

1  諸々の法(もの・こと)は、意[こころ]を先行[さきゆき]とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。もし、汚れた意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、それゆえに、彼に、苦しみが従い行く――〔荷を〕運ぶ〔牛〕の足跡に、車輪が〔付き従う〕ように。
法句経1偈 正田大観・訳

三不善根(三毒)である「貪・瞋・癡(痴)」は、この十不善(十悪)とどう関係するのだろうか?経典の注釈書によれば、

  殺生は「瞋(いかり)・癡(無知)」を根本に起る。
  偸盗は「貪(むさぼり)・癡」あるいは「瞋・癡」を根本に起る。
  邪淫は「貪・癡」を根本に起る。
  妄語は「貪・癡」あるいは「瞋・癡」を根本に起る。
  両舌は「貪・癡」あるいは「瞋・癡」を根本に起る。
  悪口は「瞋・癡」を根本に起る。
  綺語は「貪・癡」あるいは「瞋・癡」を根本に起る。
  貪求(abhijjhaa)は「癡」を根本に起る。
  瞋恚(byaapaada)は「癡」を根本に起る。
  邪見(micchaadiTThi)は「貪・癡」を根本に起る。

ということになるようだ。すべての悪行為に通底するのは癡(愚痴,無知)である。激しい貪(lobha)たる貪求(abhijjhaa)、激しい瞋(dosa)たる瞋恚(byaapaada)、という二つの「意の悪行為」に関しては、ただひとつの癡という根本から起るとされている。

また、まさに無知・無明の現象であると捉えられる邪見は、「貪・癡」の二つより起る。これは「とりもちのように所縁に染着することを相とする」(abhidhammatthavibhaavanii)貪のはたらきなしに、誤った見解に固く執着する「意の悪行為」であるところの「邪見」は成り立たない、という分析になろうか。*1

もう少し資料を読み込んでみようと思う。

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*1:この段落加筆修正。2009-01-28