仏教徒の生き方

午前中は学芸大前DMKでミーティング。14:00〜ヴィパッサナー冥想と法話の会。18:30〜初期仏教教室(Q&Aの会)。ともにスマナサーラ長老指導。以下、夜の質疑応答での長老の言葉より抜書き。

解脱を目的とする仏教徒が、俗世間での仕事や役割についてどう考えるべきか、という質問に答えて。

人間が社会の中で仕事をしたり、役割を担ったりするのは当たり前です。人は仕事から逃げられません。仏教は仕事を後回しにすることは認めないのです。その時その時のことしっかりやりなさい、と。毎日の仕事というのは、仏教では軽く見るんです。どうってことない、だれでもやっている軽い仕事だと。いかに執着しないで、怒りに陥らないで、欲張らず、感情に陥らず淡々と仕事を出来るか。それがテーラワーダ仏教で言いたいことです。

誰かが食わしてくれるわけではないのですから、仕事に行くのは当たり前のことですよ。それが大変な問題だというのはおかしいのです。仕事は大げさに考えず、淡々とやるものです。仕事に余計な意味があると思うと、かえって仕事しづらくなる。家事や育児も、大変だと思うと失敗するのです。何のこともないと思ってやること。人間として、清らかな心で、理性を育てて生きることが大事です。人間の生きざまは、どんなことからも観ることができます。仕事していても、子育てしていても、電車に乗っていても。そういうことから、人生を学ぶのです。

(気づきをもって)正しく生きる人は解脱するのです。正しく生きないのなら、話になりません。言葉をコントロールできない人、感情をコントロールできない人、子育てもできない人、仕事もきちんとできない人、そういう人が解脱するなんてあり得ないことです。社会的な責任を軽々とこなして、あの人はちゃんとやっていますよと周りにも評価される。しかし本人は穏やかに淡々とやっている。大変だ、大変だ、というふうにならない。そうやって正しく生きる人なら、悟りもすぐそばにあるのです。

私たちはけっこう無駄に時間を使っていますよ。遅くまで仕事をやってくたくた疲れて、家で掃除する暇もなく、風呂に入る暇もなくとか。そういう(現代人の)生き方を作ったのは仏教ではない。そうやって、一日じゅう頑張って仕事しても、瞬時に首になる世界です。巨大な会社も一瞬で倒産する世界です。それは明確に、(現代社会で生きている人々に)能力がないということなのです。

社会の組織が巨大化して、専門家が増えれば増えるほど、やることが屁理屈になっていきます。何百億ドルという損害を出して会社が潰れても、CEOたちは巨額の金を持って去っていく。リーマンの経営者たちも、自分たちの利益だけは確保しておいて、それを赤字に回して計上する。膨大な赤字は一般のアメリカ国民や世界中の人々に押し付ける。現代社会のトップにいる人々も、世界を破壊することしか考えていない。世界がどうなろうが、私個人だけは儲かってやるぞと。そういう社会だからどうしようもないのです。仏教的に生きることで、個人個人が自分の身を守っていくしかないのです。

お釈迦さまが、在家生活について教えた経典は少ないのです(六方礼経など)。それは、どれだけ在家生活がシンプルかということです。それをあまりにも複雑ゴチャゴチャにしているのはなぜかと考えたほうがいいのです。

仏教は人生がシンプルであることを推薦します。自分の家族がどうやって食べていられるのかと、子供の教育はどうするかと、男だったら家族が幸福にくらせるくらい収入があるかと。そこで自分仕事は終わりととめておけば大丈夫です。人間は社会システムのなかに生まれるのだから、生きている人間には義務があるのは当然です。でも学校に行って、仕事して、死ぬ。それだけですか人生は? しかもそれさえ満点でできるわけでもないし。仏教徒は、それはそれで満点でこなして、その上、それを乗り越えることにチャレンジするのです。

義務から逃げるとか、「修行するために仕事をやめなくちゃ」とかいうことではないのです。修行するためには、雑事は軽々と済ませておかないといけない。短時間で淡々とたくさんの結果を出すことは、仏教で身につく能力です。私たちは、何の生産性もない妄想で一日無駄にしている。24時間のかなりの時間、生産性のない妄想に費やしているのです。だから仏教は、瞬間瞬間、気づきながら生きていきなさいと教えるのです。妄想が無くなると時間も余ります。そうやって余った時間で、なおさら集中力を育てなさいというのです。ヴィパッサナーを実践すると、日常の雑務は淡々とこなせるようになります。

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