勝間和代「三毒追放」をめぐって(1)仏典・辞典・事典に記された「三毒」

前回の記事、「三毒」をめぐる混乱 勝間本より役立つ?怒りの分析(2008-12-27)から時間が空いたが、勝間和代氏のおかげで流行している「三毒追放」について、もう少し詳しく調べて何回かに分けて掲載したい。

ネット上で「三毒追放」という言葉の発信源になっているのは、「勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!!」の以下のエントリである。

仏教では、以下の3つのことを「三毒」と規定して、体にも心にも悪いこととして戒めています。

−怒る
−ねたむ
−ぐちる

この記事を再掲載した

には、

ちなみに、厳密には妬まない、は欲望をコントロールすること、怒らないは怒りや恨みをコントロールすること、愚痴らない、は差別をすること、自己中心的な考え方をコントロールすること、です。

仏教 三毒というキーワードでググると、いろいろでてくると思います。

と微妙なフォローが入っている。ただこのような追加説明がなされたところで、仏教で言うところの「三毒」つまり「貪・瞋・癡(痴)」と勝間版「三毒」の説明は一致しない。

大正新脩大蔵経総目録

大正新脩大蔵経総目録

を用いて、各自「三毒」を調べていただけば一目瞭然だが、「三毒」は阿含部(初期経典の漢訳)、論部(阿毘達磨)、大乗諸経典に至るまで、ほぼ「貪・瞋・癡(痴)」で統一されている。まれに「淫・怒・癡」「貪・恚・癡」といった例も出てくるが、これは訳語のぶれに過ぎず、意味は同じである。

勝間氏は「厳密には妬まない、は欲望をコントロールすること」と言外に嫉妬を貪欲の意味にすり寄せているが、これも仏教心理学から言えば間違いである。テーラワーダ仏教の『アビダンマッタサンガハ』*1でも、北方部派の『倶舎論』*2でも、大乗唯識派『唯識三十頌』を注釈した『成唯識論』*3でも、嫉(issaa イッサー:嫉妬)は「瞋恚(怒り)」のグループに属する煩悩(不善心所)である。「妬まない」は「貪(lobha ローバ:貪欲)」の意訳として成り立たない。

勝間氏は「仏教 三毒」でググることを勧めている。しかし現在、Googleで「仏教 三毒」とキーワード検索すると、勝間版「三毒」の説明記事(May 20, 2007 仏教の三毒−再掲)がトップに表示されてしまう。上記のような、仏教の文脈からは間違いとしか言いようのない「三毒」が大手を振るっているのである。

Google検索が情報収集に有用なツールであることは承知するが、歴史的に意味の定着した語彙を調べるとき、我々はもっとシンプルで正攻法な調べ方をすべきなのだ。つまり、辞書・事典を引くことである。もちろん、オンライン辞書・事典でもかまわない。本ブログの記事、

でも紹介したが、小学館の『日本大百科全書』を底本にしたYahoo!百科事典で「仏教 三毒」と検索すると、「愚痴」「煩悩」の二項目がヒットする。

このうち、「愚痴」について読んでみると、

愚痴(ぐち)
愚癡とも書く。愚かなこと。原語は一般にサンスクリット語のモーハmohaがあてられ、莫迦(ばか)(のちに馬鹿)の語源とされている。仏教用語では、真理に暗く、無知なこと。道理に暗くて適確な判断を下せず、迷い悩む心の働きをいう。根本煩悩である貪欲(とんよく)(むさぼり)と瞋恚(しんに)(怒り)に愚痴を加えた三つを三毒(さんどく)といって、人々の心を悩ます根源と考えた。また、心愚かにも、言ってもしかたのないことを言い立てることを、俗に「愚痴をこぼす」などと用いるようになった。

とある。「愚痴をこぼす」は仏教語の「痴(愚痴)」から派生した俗語ではあっても、「仏教では」と用いることのできる言葉ではないことが分る。このような本格的な事典でなくても、いま私の手元にある電子辞書に入っている『広辞苑』でも、三毒が「貪欲・瞋恚・愚痴」であることは教えてくれる。

広辞苑 第六版 (普通版)

広辞苑 第六版 (普通版)

三省堂の『大辞林』、小学館の『大辞泉』(Yahoo!辞書で採用)にも、「三毒」は仏教用語として取り上げられている。同じく『大辞林 第二版』を採用しているgoo辞書で「愚痴」を調べると、

ぐち 0 【愚痴】
(1)言ってもしかたがないことを言って嘆くこと。
「―を言う」「―をこぼす」
(2)〔仏〕 三毒の一。物事を正しく認識したり判断したりできないこと。愚かであること。痴。癡。
――の闇(やみ)
愚かで物事の道理に暗いことを、闇にたとえていう語。
「―深うして、慢の幢(はた)高し/盛衰記 8」

と、きちんと俗語としての「愚痴」と仏教用語の「愚痴」を分けて記述している。『大辞泉』『広辞苑』も同様である。

というわけで、仏教語の「三毒」とは、善根を害する三つの毒、貪・瞋・癡(痴)のことであり、勝間式「三毒」は「仏教の三毒」ではありえないことがあらためて証明された。日本語の基礎的なリテラシーのある人が、ほんのちょっと調べれば分かる事実が、単純な誤解に基づくキャンペーンによって顧みられなくなってしまうという現象は、仏教で言われる愚痴の闇(愚かで物事の道理に暗いこと)から逃れ得る人がいかに少ないか、という証明でもあろう。

念のため述べると、小型の国語辞典のレベルでは「三毒」の項目自体がない場合もある。三省堂の『新明解国語辞典』、それから日本の近代国語辞典のルーツたる大槻文彦言海』にも「三毒」の見出しはない。

言海 (ちくま学芸文庫)

言海 (ちくま学芸文庫)

だから勝間氏が辞書を調べずに「三毒」を誤用したと、一概に決め付けるわけにはいかないことは付記しておく。

(つづく)

↓ランキングが有難いことに……↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ

*1:「〔瞋・嫉・慳・悪作の〕四つは瞋根〔心〕の中にある。」(Abhidhammatthavibhaavanii 浪速宣明『パーリ・アビダンマ思想の研究』p.411)

*2:「嫉忿從瞋起。 嫉と忿とは瞋から起る。」(阿毘達磨倶舎論巻21分別随眠品5-3)

*3:「唯識三十頌」第十二頌の註として、「云何爲嫉。……此亦瞋恚一分爲體。離瞋無別嫉相用故。」とある。