仙台講演会「ブッダの集中力」


パティパダー入稿明けの土曜日、アルボムッレ・スマナサーラ長老の仙台講演会「ブッダの集中力」(仙台市シルバーセンター 主催:サンガ)に随行。割と小さめの会場は100名強の参加者でぎっしり。以下、メモより。

集中力というのは、(変化への)対応能力を育てることです。何に直面しても、アイデアがつねに出てくることです。その場その場で何をすればいいかと、ひらめくことです。そうすると、頭の中でつねにパズルをはめていくような感じになって、面白いのです。我々の頭が活発な状態になれば、いつでも楽しみがあって、いまここにある問題をどう解決すればいいかと意欲が沸いてくる。ひとつの問題が解けたら次の問題が出てきます。では、次どうすればいいかと、また対応するんです。

人は普通、ある仕事が終わってホッとして、また次にドンと仕事を持ってこられると「あ〜またやるのか」と腹が立つものです。そういう気持ちになるならば、「集中力がなかった」ということです。集中力があったら、問題を解決したことが面白くて、終わっちゃったら「次に何があるかな? 次の問題もってこい」という状態になるのです。エネルギーが減らないのです。(いま金融危機を起こしているような)世界の政治経済システムは直せません。世界の支配者は最初から能力ない、失格の人々ですから。だったら、自分の心くらいしっかりしておけばどうでしょうか。資格のない支配者が、いい加減なことをして世界をおかしくしても、気にしないで生きていられます。

幸福に生きるためには、やはり心の強さが必要です。心の強さがないと、とっさに答えが見えないんです。答えが見えなくたって、問題はいつでもあるんです。生きることは毎日大変です。問題ばかり、ハードルばかりです。人生はそういう風に出来ているのです。どこまでもハードルを飛んでいかないといけない。ハードルが消えるのは死ぬときです。死ぬまでハードルが続くんです。20代には20代なりの、80代には80代なりのハードルがあります。飛ばないといけないハードルがいつでもあるのです。それを飛べなかったら人生が終わるのです。

「明日は天国みたいな状況が待っているんだよ」というのはありえません。「明日、朝起きたら、いい国になっているんだよ」ということは、いまだかつて無かったしこれからも無いんです。それで私たちは過去を振り返って、いつも「昔はよかった」という話をしますね。それなら、あと一年たったら、「やっぱり平成二十年の頃はよかったなぁ」となるでしょう。いま生きている我々は、いつでも「とんでもない酷い状況だ」と思っているのです。これはずーっと同じパターンでしょうね。インスピレーションがある人、頭の動く人は、世界で何があっても何のことなく生きているのです。

人生は(トラブルだらけ、どころか)トラブルだけです。そういう人生で、何か上手くいったら気分がいいのです。子供が突然泣き出して、それをうまく宥められたら気分がいい。でもそれで、子供がずっと泣かなくなるわけではない。でもその場で解決したら気分がいい。それが集中力の世界です。

集中力とは、していることに釘付けになって、しっかりそれをやることです。そこで、集中力と一緒に楽しみがないと意味がないのです。集中力を育てるには、楽しいという所から始めたほうがやりやすい。しかし、うかつにそうも勧められません。「楽しいという所から始めなさい」というと、みんな自分にとって楽しいことをしようとします。これが危ないのです。楽しみから集中力が生まれますが、それぞれの人に「貴方の楽しいことは何か」と聞くと決まって危ないことばかり言う。皆さんが楽しくて、時間を忘れているのは何をしている時? 麻雀をやっているとき、ゴルフしているとき、友達と無駄話をしているとき……そんなものです。危ないことだったら、集中力など無いほうがいいのです。

今日という日は24時間しかないのです。24時間で我々は生きています。今の一秒で、いまの一分で、いまの十分で、自分が何をやるべきか、と発見して欲しいのです。何をやりたいかではなくて、何をやるべきかと。皆さん、自分が何をやりたいかとリストを作ると、いくつか項目が出てくるかも知れません。皆さん、今の一分で何をしたいでしょうか。ケイタイメールを打ちたいとか、寝たいとか、いちばん最後に講演でも聞こうかなぁとか……。だいたい、みんなリストはアベコベ、逆さまです。リストの中で、避けられないものが、一個だけがあるんです。それをやることです。それをやることを楽しみにするのです。発想を逆にすることです。人生は、楽しいことを探すのではないのです。楽しいものを探してやるぞと思っても、見つかりません。砂漠で雪や氷を探すようなものです。正しいやり方は逆です。自分には確実にやらくてはいけないことがある。それを楽しくやるのです。お母さんが赤ちゃんのオムツを替えないといけない。それは今やらないといけないこと。明日やろう、というわけにはいかない、その時間にやらないといけないことです。それを楽しくやらないといけない。楽しくやれば、元気になりますよ。

なぜ私だけこんな苦労しないといけないか……とパニクったり落ち込んだりしたら大損人生です。楽しみがあれば上手くできる。苛立ったり焦ったりすると上手くできない。なんで自分が、という不幸な生き方では集中力はひとかけらも生まれません。論理的なポイントは、「逃げられません」ということ。我々はお腹が空いたらご飯を食べないといけない。逃げられませんよ。賃貸で住んでいるなら家賃を払わないといけない。逃げられません。肉体を持っているから、病気になったりもする。病院から逃げることはできません。人生はセッティングされているから、その中で動かないといけない。やるべきことがあります。それを発見して楽しまないといけない。いまの一分でやるべきことだけ見ると、あまりにも単純です。こんな単純だったらもうちょっとできますよ、という具合にやれば、それで見事に上手くいくはずです。それで毎日楽しくなる。知らない間に集中力で生きていることになる。想像を絶する得をします。経済的にも、健康も、知識も、人間関係も、全面的に得をするのです。

あれもやりたい、これもやりたい、どうしよう……という人は、何もやっていないのです。あれやりたいこれやりたいと思うこと自体、間違いです。自由が利かないこと、やらなければならないことはたくさんあります。人生では、たまたま選択が出てくるだけ。高校はどこを受験しようかとか、就職はどこで面接受けようかとか。そういうときだけは選択がたくさん出てきます。でも選択がたくさんあるときはいちばん悩んでいるときです。中学生が高校を選ぶ時はひどく悩むでしょう。選択肢があると、けっこう悩んでしまうのです。でもそれは人生でたまたま。毎日はない。そんな余裕はなく、さっさと動かないといけない。だったら嫌々ではなくて、楽しく動かないと損です。

ホンのちょっとのポイントなんです。CMに釘付けになったり、カタログショッピングやテレビショッピング……我々が釘付けになっているのはとんでもないものばかり。時間の無駄。そんな暇はないのです。一分一分生きているのです。その一分一分、気持ちよく楽しく活発に生きていればみてはどうでしょうか。その瞬間、その瞬間やるべきことをやって生活してみると、たちまち人生が幸福に溢れたものに転換します。40年計画を立てて経済回復しようという一般の社会と違って、仏教は一日計画で、「いますぐ幸福になってください」というんです。一日でも不幸であってはいけない。一分でも早く不幸を止めるべきです。病気は一刻も早く治すことです。砂漠の中で雪を探すような人生をいい加減にやめるべきです。砂漠に期待できるのは雪が降ることではなくて、水がないこと、昼間は40度の熱さで、夜は氷点下まで冷えることです。ではその環境でどう生活すればいいか? と学べばいい。いま・ここにいるのだから、、いま・ここですごく明るく、楽しく居ればいい。その場その場で適応できる能力を身につけること。変化からは逃げられないということ。楽しみを探すのではなくて、有意義なことを楽しくやるんだよ、ということで、すぐ足元にある楽しみを発見できるのです。

ブッダの集中力―役立つ初期仏教法話9 (サンガ新書)

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