概念中毒の日本人

9月20日、東京自由大学21世紀世界地図(第?期)「テーラワーダ仏教と瞑想」に、スマナサーラ長老が出講。


鎌田東二先生のプォォォーとゆー法螺貝で講座が始まり、鎌田東二先生のいい湯加減のフォークソング(なんたら真言ではじまり、さびは弁〜財〜天)でお開きとなった……。

質疑応答と講演後の交流会(オープンカフェ)で、高校時代までタイで過ごしたとゆーNさんが発言したのだが、すごく印象に残った。うろ覚えだけど、大体こんな話だった。

タイでは、大人になって年を取れば取るほど、いろんなこだわり・概念を捨てて、捨てて、心を軽くしていって、亡くなるときにはもうすべての執着をなくしていることが、理想だと思っています。でも日本では、年をとればとるほど、いろんなこだわり・概念を増やしていって、心をどんどん重くしていく。それが大人になる事だと思っているみたいです。

それから、タイでは、一回話をしたら、それで「友達」です。すごくシンプル。でも日本では、「友達とは」というこだわり・概念が強くて、他人と一回話しただけでは友達になれない。職場で毎日話している同僚でも「友達ではない」という。じゃぁ、あなたが毎日職場で話している人は何なの?と訊いたら、「彼らは同僚であって、友達とは違う」という。そうやって、きびしいこだわり・概念が先にあって、その枠にぴったり合わないと、他人と友達になる事もできない。それが私がタイから日本に来て、すごくびっくりしたことでした。

日本人はすごく概念が好きなんだと思います。たとえばタイで映画を観たら、観た後で話すことは、その映画の面白かった場面とかについてです。でも日本だと、その映画を作った監督のこと、役者さんのこととか、それまでの作品についてとか、ずらーっと知識を並べて話をする。その監督のライバルの作品まで全部知っている。面白かった映画ならまだしも、つまらなかった映画についても、全部調べている。

タイでは、お坊さんに質問するときは、自分自身の悩みを話します。自分がいま苦しいことがあって、その苦しみを無くすためにどうすればいいですか? と訊きます。今日、皆さんがスマナサーラ長老に質問しているのを聞いていて、すごく不思議だったのは、日本の大乗仏教とテーラワーダ仏教はどう違うとか、何が正しい経典かとか、何年の何月に何という人がどうしたとか、そういう細かい概念の話ばかりで、自分の悩みとか、自分の問題を質問した人が誰もいなかったことです。えー、どうしてお坊さんにそんなことばかり訊くの?と思いました。

私は、日本に来てから仏教の本を探したけど、仏教の歴史がどうだとか、宗派がどうだとか、そういう本ばかりで、難しくてぜんぜん分らなかった。自分が苦しいとき、悩んでいるとき、どうしたらいいのか、その答えを探しても、仏教の本には書いていなかった。でもあるとき、スマナサーラ長老の本を手にとって、そこには、タイにいたときお坊さんが教えてくれたように、自分の心の悩みをどうすればいいか、苦しみをどうすればいいのか、ということが、わかりやすい言葉で書かれていました。それで、今日、ぜひ直接お話を聞いてみたいと思って、参加しました。

スマナサーラ長老も会が終わってから、「だから本当の仏教徒というのはすごいんですよ。私なんかよりぜんぜん説得力がありますからねぇ」とNさんを絶賛されていた。

追記:Nさんの発言のうろ覚え文を少し直しました。

〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜