ブッダが説く「不死」とは?

午前中、学芸大でRJミーティング。夜からスマナサーラ長老の朝日カルチャー(新宿)公開講座『仏教が目指す「理想の境地」〜究極の「やすらぎ」を求めて〜』(第4回)ブッダが説く「不死」とは何か(「この世」も「あの世」も乗り越える)のプロジェクタ操作係。以下W-ZERO3 esで取ったメモ。今回も情報量がものすごかった。


■ブッダが説く「不死」とは?
この世もあの世も乗り越える


●死と言えば何を思い出すか
仏教ただの知識ではなく、人生のことを語っている。自分の生き方に照らして学ぶべき。
自分の見方で学ぶのではなくて、学ぶことでこれまで持っていた人生観が壊れていく。
(固定概念が)壊れないといけない。仏教は、より高度な智慧の世界へ誘う。
死とは身体が壊れて機能できなくなること。処分しないといけない。
亡くなった人に愛着があるとその人の死を認めたくない。
身体死んでも霊魂たましいなど何かがあの世で生き続けると信じて自分の悲しみを癒す。


●魂は永遠という概念
人にとって「肉体が壊れること」が死。
また死は避けるべきと思う。肉体至上主義。肉体は高度なものと思う。
「命は永遠」という概念は、証拠があるわけじゃない。
死を認めたくないから思い浮かんだ考え。
「永遠の魂」の思考は、原始時代から営々と続けられてきた。
決して「賢者の教え」ではなく「原始人の思考」に過ぎない。
死んだら永遠の天国にいくなら、死者はみな永遠?
しかし人には嫉妬憎しみ怒り差別感高慢自我などの汚れある。
自分の敵や嫌いな人も天国に行くのは認めたくない。
そこで永遠になる条件、永遠の幸福、永遠の苦しみなどの概念を考えたりする。
それにも普遍性ない。証拠ない主観に過ぎない。
聖書を読めば、裏で怒り憎しみ嫉妬差別内のもの外のものという概念があって書かれている。


●死は悲しい
人の死を悲しいことだと思って弔うのは習慣です。人は「自分は優しい人間だ」と信じ込む。
しかし人は誰の死でも悲しいとは思わぬ。
戦争の場合は敵の死は祝いの対象
無関係者の死には無関心。
死が悲しいなら一切生命の死を悲しまないと。
人間以外の生命の死は管轄外。眼中なし。
利益独り占めのために虫も殺虫剤で皆殺し。
死の悲しみは故人に対する愛着・執着から起こる。
善い人間だから悲しむのではなくて、愛着・執着があるから悲しむ。
人は自分で偽善者であることに気づかない。
仏教はごまかし認めない。事実を否定しても意味がない。
人が死んで泣くことは仏教では不善行為。
死に対する悲しみは「エゴ」の現れ。


●死ぬのは怖い。
他人の死を見て、自分の死は怖いと思う。
一切生命が最大恐怖を感じるのは自分の死。
人に与えられる最大の罪、最大の不幸、最大の苦しみはその人を殺すこと。
なぜ私は死ぬのは怖いのか?
因果応報。与えたものを得る。他の生命に与えた恐怖感は自分を追ってくる。
死の恐怖の反対に、慈しみを与えることが尊い。生命に安心を与える、仲間になる、差別の壁を消す。
それは生命の期待する最大の幸福を与えていること。死は最大の不幸。

死の恐怖感があっても、その理由は誰も知らない。
原因不明の病には治療法もない。
恐怖感をなくせないことになる。仏教しか解明していない。どんな哲学学んでも死の恐怖取り除けない。
なぜ死ぬのは怖いのかという原因を見つけないといけない。


●死ぬのは怖い=生きるのは好き
生きること快楽と思っているから死ぬのは怖い。
自分の肉体最高の宝物と思っているから、それが壊れるのは嫌。
自分執着してる財、人、地位などから離れるのは嫌だから死は怖い。
故に仏教は肉体を不浄と見る。それで死の恐怖を離れられる。捨てるもの何もなくなる。精神が安定する。
すべて失うと思っているから死は怖い。生きることはすべてだと思っているから。
無知で愚かで生きることに肉体物事に強烈に執着してるから死は怖い。
死が怖い、ということも心の汚れなのです。
鳥が枝に捕まって休んだら、その枝はその鳥のものであると言えるか。人間もいろんなものにつかまっているが、それを自分のものだと思う。自分のものだったら自分と一体にならないといけない。自分から離れないはず。本当はたまたま枝があったからたまたまそこにつかまったようなもの。ひとつも自分のものはない。自分のものと思って執着するのは想像を絶する愚か者。


●差がつく死の恐怖感
守りたい財産も地位もない動物でも死は怖い。
必死で身を守ろうとしている。
他の生命の死の恐怖感は執着たくさんある(地球も宇宙もオレのものと思ってる)人間の死の恐怖感と違うかも?
そうとも言い切れない。他の生命には常に誰かに殺される、攻撃されるおそれがある。落ち着く余裕がない。動物世界は四六時中死の恐怖。安心して寝られない。
しかし犬猫徳と比べても人間に苦しみが多い。人間には殺されることはあまりないかもしれないが、執着がすごい。それでかなり苦しむ。野生動物よりも怯えて生きる羽目になる。
野生動物は楽に生きたいと思っても環境がそうさせてくれない。人間は執着心で自ら地獄を作る。
従って死の恐怖感は皆に平等にあることでしょう。
生命は環境と調和している。人間だけガン細胞で環境破壊。他の生命の生きる権利も奪う。


●幻覚と戯れる
人間には妄想できるという「代物」の能力がある。
極楽浄土、Eden、パラダイス、天国などの決して変わらない境地が死者にあるのだと妄想して納得する。
人間は何の証拠もなく、感情的な願望だけで妄想する。アベコベ思考。ほとんど妄想して判断するからcommunication成り立たない。自分の思考で苦しみが生まれてくる。

なぜそれほど妄想するのか。それくらい死ぬのが怖い。怖いから激しい妄想を作り出す。恐怖から逃れようと妄想の世界に閉じこもって、出られなくなる。人生台無しにする。

死の恐怖におそわれて宗教まで作る。宗教は死の恐怖から生まれた。

死後がそれほど至福感に溢れているなら、できるだけ早くそちらに行った方が理性で考えると正しい選択なのに、

一神教自爆テロ犯はその理屈。だから若者はいとも簡単にテロリストに洗脳される。無知だから、なぜあなたが先に行かないのか?とは聞かない。

釈尊:「祭祀の生け贄(動物)は直行で天国に行く」と聞いて、そう語ったBrahmanに、「じゃぁ、あなたもいますぐ死んで天国行けば?」と。
仏教徒の奴隷少女:早朝水汲みに行った時、生天を目的に池で沐浴してお清めしてるBrahmanに対して、「じゃぁBrahman先生より池の魚やカエルなどは先に天国にいけますよ。24時間水にいるから」と。

死後の天国・永遠の魂を説きつつ、みな、一分一秒でもこの世で長く居たがるのはなぜ?
死後永遠なりという保証はないからである。
人々に「長生きしなさいよ」と言える宗教は、本当は仏教だけ。
「心が汚いままで死んだら大変だ。一分でも長生きして善行為しましょう」ということは論理が通っている。


■死観
仏教で俗世間の邪見をどう壊すのか?
死とは何か? 仏教で解明する。


●生と死は同じもの
生と死は、A=B なのか?
仏教、無常語る。一切現象止まることなく停止なく変化する。その動くのスピードはすべての現象に対して同じ。
早く変化するものゆっくり変化するもの俗世間的に見ればあるが、実際はすべて同じスピードで変化する。
何かがなくなることは何かが生まれることで、何かが生まれるということは何かがなくなるということ。
素粒子レベルでは変化のスピードは同じ。机、豆腐、というレベルで見るから違いがあるように見える。

この世で生を受けた瞬間から我々は変化しつつ、俗に言う成長というものを喜んできた。ある時期まで喜んでいたのに、いつの間にかその変化を嫌に感じて老いといい、やがて死という。
何も珍しいこと、あってはならないことが起きたのではない。
成長は嬉しいと思うなら老いも喜ばなくてはならない。そして死も。

現象は一定のスピードで変わって行くだけ。
死によって底のない穴に落ちるわけではない。
現象は限りなく変化し続けるだけ。


●子供は大人になれない
子供が大人になるというのは勘違い
子供という現象が死に、大人という現象があらわれる
瞬間的にこの変化起こる
何年何月何時何分何秒で子供は大人になったのか?
現象の瞬間的変化を観察できるなら、何の不思議もなく現象が変わってゆくこと、また一つの現象の死は新しい現象の生であることを発見できる。
真理の立場では、誕生を祝うなら死も祝わねばならない。死を悼むなら誕生も悼まなければならない。


●喩:毒の点滴
人が毒の点滴を受けているとする。点滴が終わるとその人死ぬ。
少々時間経って、別の人が来て同じ毒点滴受ける。
その人自分を棚にあげて相手を心配する。
自分も点滴受けているのに、他人の死を心配するのは成り立たない。意味がない。


●死を怖がる理由
生きるとは苦である。……ここから次元を高くした別の説明をする。

命とは感覚のこと。
身体とは常に変化する物体
生きているとはその物体に物質と違った働きたる感覚が流れていくこと
六根で対象を感じている
その感覚が苦なのです。
同じものを見続けると、同じポーズで長い時間動かずに居ると感覚が苦であるとわかる。
呼吸を少々止めてみると苦を発見できる。
苦に耐えられなくなると死です。生きるとは苦を限りなく他の苦に入れ替えていくこと。


●楽しみはないのか?
感覚を三受(苦・楽・不苦不楽)に分けるのは、相対的立場の理解。
本当は感覚は苦以外の何物でもない。
ふくふらくの感覚を定めておけば、それより上の感覚が楽になるし、下の感覚が苦になる。

100万あれば何とか生きられると定める人には80万は苦で110万は幸福。その基準が高い人は一生不幸。低い人は簡単に幸福に暮らせる。
だから仏弟子は基準を最低に置いておく。

三受の基準は各人が勝手につくるもの。均等な生活していても人生が楽しいか苦しいかバラバラ。世間はその基準をあげようとするからよけい苦しくなる。


俗にいう楽は相対的概念です。人の主観で変わる。
本来は「感覚が苦」です。


●死を嫌がる理由
死んだ経験がないから怖くなるはずない
しかし苦の経験は瞬間たりとも絶えることなく経験している。
時に耐え難い苦も感じる。
生命の目的は「苦からいかに逃げるのか」になる
しかし苦から逃げて楽に達するのではない
苦から別の苦へ逃げてしまう。そこからまた逃げなければ。

瞬間たりとも苦から離れないので、それに気づかない。大きな苦の波を受けないと気づかなくなっている。

苦から苦へと逃げる。仕事が苦しいんだと止めてもさらに苦しい。苦からは逃げられない。
苦から逃げたのに逃げた場所また苦なら、悔しい。また逃げなくてはならない。苦から苦へと逃げることが続くと苦の量がさらに増える。
人は毎日生きる苦しみが減るどころか増えているのだと実感してる。苦は耐え難いものになるのだという想定もある。それを知っているから怖い。だから年取るほど健康維持に固執する。
でも孫悟空がお釈迦様の掌の上を飛んだようなもの。

将来、幸福になろうというのは、単なる苦に対して起こる夢。苦が増すのは経験済みの事実。
人は限りない苦を嫌がる。それは観念で概念で妄想では逃れられない。
死は怖いと泣くのではなく、生きるとは上昇する苦であることを発見すべき。
それで生に対する無知、執着が消えて心が落ち着く。


■ブッダの教えによる「不死」を理解する
「生」と「死」は同一現象として理解できる人に、仏教的な「不死」とは何かと理解できる。


●生滅の波
現象は生滅の波である。
一時間前の私は今の私ではない。
「私」とは頭で、概念で現象をまとめて理解するために使う言語・信号・表記・音に過ぎない。
同じシンボルを使ってもその中身が変わっているのです。
一時間前の私と今の私の関係は、「一本の流れ」であったことです。
カボチャの種に「カボチャの流れ」があり、リンゴの種に「リンゴの流れ」がある。(パーリ語でsantati)


●因縁の影響
流れの変化は因縁により起こる
生命は生きる上で常に因縁を変えたりする
だから今の現象が次の現象に変わる場合、自己責任ということ成り立つ。
気象変化など我々に変えられない因縁もある。それは自己責任にはならないが、生きる苦しみの原因にはなる。苦しみは味わわなければならない。死は生になり死は生になる流れなので、身体の死(壊れる)で終わりにはならぬ


●肉体の死
肉体は感覚があるから変わりつつ流れる
しかし物体に耐えられる苦にリミットがある。
このリミットを少々でも超えるようになったら、その肉体組織が壊れる。
これが肉体の死。
執着・煩悩・悩み・悲しみ・憂いなどは心の苦しみ。
またこころとは知る感じる機能。その流れは無にならない。
肉体が壊れると別な場所でまた生死の流れが続くのです。
休止、いったん停止はない。
「永遠の天国」などを目指しても、決して不死の境地に達しない。
天界も梵天も、苦の「程度問題」に過ぎない。
無停止の生死の流れを輪廻と言う。
こころの因縁を見出した仏陀が、「無明が輪廻の主な原因」と明かされた。


●この世もあの世も超越する
智慧で無明を破ることで「苦を連続させる」原因がなくなる。
その人に生死の流れがなくなる。
これは、この世も、あの世も超えたことである。
苦しみを脱出したことになる。
無常たる現象を客観的に観察することでありのままの事実を発見できる。
これが、「智慧」という。


●死に苛まれないために
物事は無常なので、執着しないことにする。
欲、怒り、嫉妬などは無常の現象の中で成り立たないと理解する。
何としてでも生きるのではなく、死んでないからその時間まで、気楽に、楽しく、穏やかに、明るく生きることにする。
後悔することに、批判を受けることに、良心が傷つくことになる行為をすべて止める。
喜び・充実感を感じられる行為を行う。
それで、死の恐怖感が消えて行く。


●死を乗り越える
常に、客観的に観察する人になる。
真理を学んで智慧が現れるように勉める。
自然にこころの汚れがなくなってゆく。
解脱に達する。一切の苦しむから最終的に解放されたことになる。
これを最終目的にしてブッダは説法した。


以上。

SAさんからパンのお布施をいただいた。
幡ヶ谷で奥さんと待ち合わせてPOEMで夕餉。

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