合掌と「いただきます」

19:00から、東京丸の内オアゾ丸善にてスマナサーラ長老の講演会「心の中はどうなってるの?」を開催。仕事帰りの若い社会人(男女とも)の姿が目立った。ちょっとマイクが遠くて、長老の声が聴き取りづらかったかなぁ。質疑応答で、長老の「コーチング」についてのコメント(仏教は他人にやらせるより、自分がまずやってみる、という立場です。云々)が聞けて興味深かった。企業の管理職向けに、職場の環境づくりのヒントになる本なんかを企画しても面白いかもしれない。丸善講演会に集う人々を見て、そういう本も求められているんじゃないかなぁと思った。

毒舌・仏教入門 (集英社文庫)

毒舌・仏教入門 (集英社文庫)

先日紹介した今東光の『毒舌・仏教入門』にちょいと気になる記述があった。

……わたしは帝塚山(てづかやま)の女子短大なんかにもちょっと講義に行ったりしていて、大阪のお嬢さんたいとご飯を食べると、彼女たちはご飯をいただく前に必ずこうして拝んで食べる。食べ終わると、またこう合掌する。どこへ手を向けているのかわからないけれども、しかしそういう習慣が家庭的についている。わたしはこれは、オール関西のひじょうによいところだと思うんです。
 関東には、これがない。関東の人で、こうして拝んでご飯を食べる女の子なんて、見たこともない。しかし関西へ来ると、たくさん見るんです。料理屋でさえも、合掌してますよ。そういうことが、仏教というものが平生の生活に染み込んでいるということで、これが大切だとわたしは思う。(pp28-29)

今東光が戸津説法をした1975年(昭和50年)当時、食事をいただく前に合掌するのは「関西の習慣」だったようなのだ。

実は、1972年東京生れの僕の家でも食事前に合掌する習慣はなかった。大学生のとき、近くに住んでいた母方の祖父母の家で夕食をご馳走になって、「いただきます」と言いながら合掌したら、祖父から「何を拝んでいるんだ?」と怪訝な顔をされたことを覚えている(かじりたての仏教の小理屈を述べて、ふーんとか言われたっけな)。食事のときはもちろん、家族揃ってから「いただきます」と言うのがふつうだったが、ちょっと背筋を伸ばして頭を下げて、という感じで、手を合わせる習慣はなかった。それが手を合わせるようになったのは、大学に入って、いろんな地方の連中と付き合うようになってからではないかと思う(まぁ、印哲とゆーこともあっただろうが……)。

いま、テレビで食事のシーンなどを観るとだいたい「いただきます」と言って合掌している印象がある。
スタジオで食べ物を試食してる場面を正面から撮る場合、合掌した方が「わかりやすい」ということもあるのだろうが、テレビの風景が逆にお茶の間にフィードバックされることもいまどきは多いだろう。

ただ、いまでも僕の実家では「いただきます」のときは軽く会釈である。

うちの奥さん(60年代生れの名古屋育ち)の家では、「いただきます」の時は合掌がふつうだったという。

今東光の言うように仏教の浸透度と結びつけられるか解らんが、これってけっこう地域差があるのではないか。

時々、マスコミで「日本人の精神の荒廃」の象徴として「うちは給食費を払っているのだから、給食を食べるときに『いただきます』と言わせるな」と学校にイチャモンをつける基地外父兄(モンスターペアレント)の記事が載せられたりする。それに関連して、「いただきます」の際に合掌させるのは特定宗教の習慣だから止めさせろ、とこれまた学校に考えすぎのイチャモンをつける手合いに憂慮する教育現場のことが紹介されたりする。学校の先生もたいへんである。

しかし「いただきます」と「合掌」のセットが日本人にずっと普遍的に受け入れられていたものかというと、怪しい。
こういう微妙な習慣の変化というのは、見落とされがちだと思うので、書いておいた。

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