新約聖書の誕生/アマゾンの怪

『新約聖書』の誕生 (講談社選書メチエ)

『新約聖書』の誕生 (講談社選書メチエ)

キリスト教ネタが続く。加藤隆『『新約聖書』の誕生』読了。うつらうつら寝ながら読んだらなぜかかえって頭に入った。自分なりに要約すると、いわゆる「新約聖書」が成立確定した四世紀後半までに至る歴史において、「新約聖書なきキリスト教」が存在していた時期があった(当初の教会では口頭での「言い伝え」の方が権威をもっていた)。旧約の権威もユダヤ人のキリスト教徒が減少するにつれて薄れた。パウロの教会において「信仰のみ」の救済によって生まれた道徳的アパシーを緩和するため、ユダヤの律法主義が便宜的に用いられた(「信仰のみ」の立場では道徳が明確に成立しない)。新約聖書が文書化されたのは、ローマ帝国内でさまざまな力学が交錯するなかで「教会の権威」を担保する目的であった。四種類の福音書が書かれたのは、分立していた各地の教会で自分たちの正当性をアピールする意図を持っていた(最初に書かれたマルコ福音書はエルサレム教会主流派への批判を目的としてヘレニスト、つまりギリシャ語を話すユダヤ人出身のキリスト教徒によって書かれた。他の福音書もそれぞれある派閥のキリスト教徒によって自派の権威確立と反対派への批判を目的として書かれた。その点では偽典とされたグノーシス系福音書も同じだ)し、パウロ書簡が公開されたのも教会の危機を収拾するためだった。特に新約聖書の正典範囲が教会によって確定されるきっかけとなったのは、2世紀に登場したグノーシス的立場(ユダヤ教の「創造神・律法の神」とイエスの「愛の神」は別の神格とみなす主張。前者を「この世的」な価値観を代表する邪神として排撃する)をとる強力な分派、マルキオンの教会で編纂された「マルキオン聖書」の衝撃に押されたものだった。とどのつまり「新約聖書」は教会の権威をめぐる「この世的」事情で制定されたものであり、その価値は相対的であり、「新約聖書」を絶対視する立場は神ならざるものを信仰する「物神化」である。実際、聖書なきキリスト教も成り立つ(成り立っていた)のら、とゆーのが著者の主張のようだ。

それから、著者はキリスト教における「信仰」の意味について、ギリシャ語の「ピスティス」(pistis)を原語とする「信仰」は、日本語に訳するならばむしろ、武士の主君に対する「忠義」が近い、と述べている。

「忠義」という語を「ピスティス」の訳語として採用すべきだと主張したいほどである。しかもパウロの立場において「ピスティス」は「神の前での義」に帰結することが強調されているのだから、「義」という文字がふくまれている「忠義」という語はますます魅力的である。(121p)

なぜか可笑しみを感じさせる一節だが、新渡戸稲造がキリスト教信仰に対応する日本の伝統として「武士道」を持ち出したのも、あながちピントはずれではなかったとゆーことか。それにしても、キリスト教の救済論理は、大乗仏教(の一部)とよく似ている。イエスが仏教を知っていたかどうかわからんが、それなりに交流があったのは確かだろうな。加藤隆もあと何冊か読んでみようと思う。


さて、アマゾンの怪とゆーのは、amazon.co.jpで「スマナサーラ」と検索して「和書」を選び、「売れている順」を選択するとなぜか別人の、仏教でもない日本人「瞑想研究家」の著書がトップに来てしまうことだ。カスタマーレビューに「スマナサーラ」とゆー名前が入っているのでまったく無関係ではないが、別に売上ランキングを見ても、長老の本より上、とゆーわけではないのに。どーゆー基準なのか釈然としない。そういう「似て非なるもの」が引っかかるならまだしも、まったく関係ない「自称明治天皇の孫」とかゆーオバちゃんの妙ちきりんな本までエントリーされている。これって、何かのいやがらせかいな?

追記:上記の件は、とりあえずamazon.co.jpにメールしておいた。

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