成長の見込みある人が「弟子」と呼ばれる
来客の多い日だった。山形から遠路はるばるHさん、大学の授業の合間にスダンマ師、今日帰国されたスリランカのラジャパクサ大統領の書記官(宗教担当)とダンミッサラ長老、スマナサーラ長老のご親戚と筑波大に留学中のスリランカ人研究者。夜は「読経と瞑想の会」。お昼のお布施はupestさんの麻婆豆腐。
スマナサーラ長老の法話より……
仏教ではもともと「弟子」はいらないのです。(師にとって)問題は「良い弟子」(かどうか)ではなく「成長する弟子」(かどうか)なんです。人が成長しようとするならば、助けてあげなければいけない。それだけの話ですよ。……その人に成長する見込みがあるならば、先に成長した人(先生)は、その人を何とか育ててあげなければいけない。それが人類に対する恩返しであって。そこではじめて師弟関係というものが成り立つんです。しかし、弟子が素直に師の話をきかないならば、師に文句をいうのなら、もう捨てるのです。何が何でも育てる、ということはないんです。なぜなら、自分の性格は自分で向上させなければいけない、自分がやらなくてはいけないからです。別に弟子をたくさん作るというの話は仏教にはなくて、「育つ見込みのある人を育てる」ということなのです。仏教は「性格を変える」世界だから、「自分は頑固なんだ、変わらないんだ」といったら意味がないんです。そういう人に付き合うのはエネルギーの浪費です。仏教は理性的な宗教だから、無駄はしない。無駄だったらすぐやめる。だから人の性格を厳しく観るのです。生まれつき頑固でも成長しようとするならば、それは本人が頑張ってやらなければいけない。(11月10日ダンマパダ講義メモ)
仏教で「学ぶ」っていうのはどういうことかというと、会社などで学ぶことじゃないんです。仏教で「学ぶこと」というのは、人格が変わることなんです。(同上)
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜