現代人のための公案

今日はかやの木会館の月例講演会。『賢者は「ありあわせ」で勝利する〜「たら・れば思考」敗北への道〜』というタイトルだとピンと来ないかもしれないけれど、いつにも増してスリリングな内容。「現代人のための公案」とゆー自分なりのタイトルが浮かびました。さわりのところをご紹介しましょう。

「草の束」

では、一つの問答に挑戦してみましょう。

  • 「草の束は美味しいですか?」
  • 「yes」でしょうか、「no」でしょうか?
  • Yesなら、あなたは草を食べる人間になる。
  • Noなら、あなたは草を食べる人間か食べたことがある人間になる。
  • どちらでもないなら、あなたは草を食べる人間になる。
  • 「わかりません」(という人)は自分が無知であることを認める。
  • しかし、正解があるとするならば? その正解とは?
  • 仮に答えは、「Ƣƕ▲▼◇?※◎」にしておきましょう。
  • (この問いの)答えは二種類になります。
    1. (1)conditional条件付の回答、
    2. (2)unconditional条件がない回答 です。
  • (1)条件付の回答
    • 条件付(Conditional)の回答は複数あります。
    • 人間には草が美味しくない。山羊や牛などの動物には草が美味しい。
    • 草は餌にしている生命に(は草は)美味しいでしょう。
    • 草は食べ物にならない生命にはこの問答は成り立たない(→管轄外です)。
    • 草を噛んでみてその経験を語る場合は、
      1. 美味しい、
      2. 不味い、
      3. どちらでもない という3つです。
  • (2)条件がない回答
    • 条件がつく必要はない(unconditional)回答に達するために、先ず、分析しなくてはならない。
    • 草とはなんですか? それを具体的に把握しなくてはならない。
    • 「美味しいですか?」とは何ですか?
    • 美味しいとは味覚に対する「良い」という評価ですが、ここで味覚を訊いているのです。
    • 味覚とはその能力がある全生命の主観になるのです。
    • ですから、味覚がある全生命の主観が答えになります。
    • ですから、回答は「Ƣƕ▲▼◇?※◎」になってしまいます。
    • 分析が終わってから、再び組み合わせて見る。
    • ここで言う「草」という品物が自分で「味」という性質を持っている。
    • その原因によって、生命に味覚が生じる。
    • 各生命の味覚はバラバラで、主観なのです。
    • それは決して条件がつかない答えにはならないのです。
    • では、知るべきなのは草が持っている「味」とは何なんでしょうかということです。
    • それが、客観的な答えになる。
    • それを知るために、語るために、私は「主観のない知力」を持たなくてはならない。
    • 従って、条件がつかない唯一の答えが、主観を破った、真理に達した人のみが知っているのです。
    • 正しい答えは一般の人の管轄外なのです。
    • このように、全くくだらない例を用いても真理の世界・境地を指すことができるのです。
    • ありあわせで真理に達することができるのです。
  • 草の束が語ることとは?
    • 「草の束が美味しいですか?」と訪ねると
    • 普通の人は怒る、相手を笑う、相手が可笑しいと思う、からかわれていると思う。
    • それは頭が固いからです
    • その人に草は「不味いに決まっている」。
    • 「草」には一側面しかないという偏見に陥っている。
    • しかし、「汝には私を語れません」と草が言っている。
    • 「草の束が」我々は無知であることを証言するのです。

ここから、物事の多側面に目をつぶった無知な人には「全ては決まっている」 という思考からいくら道具があっても足りないという「たら・れば」思考が生れるという分析がなされます。ありあわせで心安らかに生きる出家の道と、道具に支配される世俗の道とが対比されるのです。

「最小限の生き方は社会の怠けに支配されている生き方に対する挑戦でもあります。心を活性化することになります。「私は修行しているのだ」と社会に見せて認めてもらう目的ではありません。仏弟子は、社会で評価されている、断食、滝行、苦行などを真似ることはしません。釈尊の説かれた「最小限の原理」に従うのです。」

そして、悟りへの挑戦の道とは依存からの解放であると説かれます。

身体はものに依存します。こころは感情・妄想・思考・概念・信仰などの刺激に依存しています。これはこころの汚れ(煩悩)というのです。こころも自分を発展させないで、ものに依存して生き続けたいのです。勝利を目指す人は、この依存からこころを解放しなくてはならないのです。」

では私たちが修行して悟りにいたるための「必需品」とは何なのか?

「6つの感覚器官が必要です。いや、6つも要らない。1つの感覚器官に集中して「(執着の対象があるという)幻覚を引き起こす(認識の)からくり」を発見すれば十分なのです。」

わたしたちが全存在の勝利者になりたかったら……

「お数珠も聖地巡礼も滝も清らかな環境も、精進料理も、有名な道場も、その他の何もいらない。人類を代表して受難してくれる人も、予言者も救い主も、残念なことにいらないのです。ただ自分の身体だけあれば、完全たる悟りに達する。苦を乗り越えられる。一切の勝利者になれるのです。」

いやぁ、すごかった。

一転して質疑応答では、かなりテンション下がりました。かやの木は質問者にマイクを回せないので質問を共有しにくい。また、そもそも何を質問したいのかまとめないで手を上げる人も多いし、勝手に割り込んで不規則発言する人もいるし……。(以下自粛)月例講演会は人数もすごく増えてきたし、控えめな常識人の質問を引き出すために、次回からは質問用紙を回して記入してもらうほうがいいかもしれません。

在家に戻ってみると、スマナサーラ長老の忍耐強さ、慈悲の深さを改めて有難く感じたのでした。

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