在家佛教7月号「千の風になって」にちなんで大風呂敷

在家仏教 2007年 07月号 [雑誌]

在家仏教 2007年 07月号 [雑誌]

在家佛教協会の月刊誌『在家佛教』7月号を拝読。藤井正雄師の巻頭言「故人は墓のなかにはいないのか」、奈良康明師の如是我聞「千の風になって」で同じくヒット曲「千の風になって」について触れている。

わてのお墓の前で 泣かないでください
そこにわてはいまへん 眠ってなんかいまへん
千の風になって
そのへんピーピュー飛んどるさかい

とゆーような歌詞の曲なもんで、お墓を「人質」にして檀信徒をつなぎとめている伝統仏教界の論客としては、「お墓の中に故人がいない」と断言する歌が流行るのは困っちゃうなぁと、戸惑いがちに苦言(とゆーか言い訳)を呈しているわけだ。しかしご両人とも、どうもピントが外れている。仏教的には故人が墓の中にいるとか、いないとか、何の関係もないはずだ。ましてや墓石を「死者と交わるための象徴」として位牌と同一視する奈良康明師の理解は、一般人の理解に寄り添いすぎているように思う。

そういえば、「住職のひとりごと」の全雄師も、「「千の風になって」の誤解」でこの歌の歌詞について論じていた。『中外日報』の社説でも「千の風になって」について取り上げられていたそうだ。上述の二師のエッセイもそれに絡んでの反応だろう。全雄師はこう言う。

私たちは、この身体が自分だと思いこんでいる。だから、亡くなった人もその遺骨がその人だと思ってしまう。私たちはこの身体をもらって、生きているだけで、身体は寿命を終えたら、脱ぎ捨てて、来世に行かねばならない。

どこへ行くかはその人の一生の行いによってもたらされる亡くなった瞬間の心に応じたところと言われている。だからこそ、私たちは仏教の教えを学び間違いのない生き方をしなくてはいけない。

では、お墓にいるからお参りが必要で、いないなら墓参りは必要ないのであろうか。お墓とは、亡くなった人に仏塔建立の功徳をささげ、その功徳を回向するために建立するのである。

だから、亡くなった人がいなくても、足繁く墓に参り灯明線香花を供えて荘厳し、その功徳を来世に赴いた故人に、前世の家族として回向してあげることは大事なことであろう。

これは仏教徒として筋が通った見解だと思う。もしも仏塔建立の功徳を故人に捧げ、仏塔を荘厳することが仏教的な墓建立・墓参の本意というならば、田中智学が創立した国柱会一之江妙宗大霊廟こそが、模範的な「仏教徒の墓」ってことにならない?(僕は『法華経』で追善供養されたいとは思わないけど)田中智学、この方面での再評価も希望しておく。

個人的には、この歌のルーツについて、「ネイティブ・アメリカン起源」云々ということが言われていることも気になった。以前、南アメリカの先住民に伝わるハチドリの物語という触れ込みで流布された「ハチドリのひとしずく」が、実は仏教のジャータカ起源らしいことを指摘したことがある(2006-10-13 南方熊楠と「ハチドリのひとしずく」)。

何かスピリチュアルなメッセージを社会に流通させようと思った場合に、ネイティブ・アメリカンを持ち出すと話のお通じが良くなるという「お約束」はけっこう広範に共有されているんだろうか(笑)。まぁ、僕が関わってるreview-japan もインカ文明ゆえんのKhipu(キープ)を名乗ってリニューアルしましたけど。そろそろ「仏教がアメリカ大陸に伝わっていた説」を誰か復活させてくれんかなぁ(笑)。くだんの「ハチドリのひとしずく」だって、南米に漂着した仏教僧侶が先住民たちに伝えたってことになりゃ、丸く話がまとまるんだけどね。

ハチドリのひとしずく いま、私にできること

ハチドリのひとしずく いま、私にできること

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