「Sousei」笛岡泰雲師の記事

全国曹洞宗青年会の機関誌『Sousei(そうせい)』No.137(2007Apr)に、日本テーラワーダ仏教協会HPの共同管理人、笛岡泰雲老師(丹後野田川 宝泉寺住職)が寄稿されている。

 私は宗門寺院の一住職で初期仏教にも関心があり、今回このお題を戴きました。
 九年前からスリランカの初期仏教長老の法話と実践指導の会に学び、拙寺を会場に長老を拝請し参加者二十〜三十名・五日間の宿泊仏教実践会を十回ほどご指導戴いております。修行実践で心を清らかに育て、人格完成を目指しますが、私の場合には僅かな経験や立場で得ていたつもりの多少の自信が、実は貪瞋痴と根強い慢心に依るものだと気づくような昨今です。未熟で分不相応かと恐縮しながら、宗派などが現れる以前、お釈迦様が直接仰ったといわれる修行方法を学ぶことの意義を考えてみます。

という書き出し。笛岡師のお人柄を多少なりとも聞き知っているならば、この謙遜した言葉に粛然とさせられるだろう。宝泉寺宿泊実践会には、僕も何度も参加させていただいている。2005-08-17の日記で紹介したけど、宝泉寺は若き澤木興道師が笛岡凌雲師に随身して過ごしたお寺でもある。

 私の場合、「宗門の僧侶は他所見せず坐禅することが仏道」と教わり、「実地に坐禅し祖録講義を聴講し行持作法を如法に勤めるならば、浅学ではあっても一僧侶として恥じることは無い」と考え、大乗仏典に下根劣智とある小乗などは学ぶ必要なしとしておりました。
(中略)
 道元禅師は、釈尊を恭敬供養尊重賛嘆、不惜身命で仏法を伝えられ、中国禅宗の祖師方を点検し追慕されても「禅宗と称するなかれ、我が伝えるのは釈尊の仏法宗である」という意味のご文章のように、釈尊本来の仏法相続に懸命でした。
 宗門で悟りは衆生に本来備わる在り方とされ、実際に個人が後から目指し、悟るものではないとされます。本来終着点上の存在であれば祖師の教えを信じ行じる処が仏道であるから、小さな自分持ちの納得や自覚、更に終着地点や結果は不要になります。
 一宗を背負うような筋金入りの方がたは別格としても、一般宗侶の私は二十年三十年黙して坐ればよしという信仰の坐禅を行じる覚悟を目指しましたが、自身の納得や自覚の無いままでは何処かが落ち着かぬという軟弱な部分がありました。

と続けてご自身のかつての仏教理解について振り返る。笛岡師の「信仰の坐禅」なる一言はすごく重いと思う。そこで笛岡老師が出会い衝撃を受けたのは、文中でその全文が紹介されている「法の六徳」に代表される「証拠が無いもの、結果の無い行為などを仏陀はまるで認めておられません」という初期仏教(テーラワーダ仏教の意味で使われている)の明快で揺るぎない姿勢だったというわけだ。

どこまでも私(わたくし)を出さない笛岡氏の書きぶりゆえ、伝わりにくいところもあるけれど、読む人が読めばかなりインパクトを受ける文章だと思う。師の投じた一石の行方や如何に?

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