自灯明・法灯明

PM6:30より朝日カルチャー公開講座『ブッダは「ひとりだち」を応援します』第三回「死を目前にお釈迦様が説かれた言葉(自灯明・法灯明)」をパワポ助手しつつ聴講。

スマナサーラ長老は、スッタニパータ「ダニヤ経」をパーリ語の古形にまでさかのぼって読解し、仏教の自由な境地を説かれた。人間が生存のために作り出す「社会の檻」と「こころの檻」の問題について語られた後で、クライマックスには「自灯明・法灯明」の解説。

  • 釈尊が涅槃に入られる前、「釈尊が亡くなられたら、弟子達は頼りがなくなって困るのではないか」という考えがアーナンダ尊者に起きた。
  • 釈尊は「弟子達が私に頼るべき(依存すべき)だ(という気持ち)も、私が弟子達の頼り(依存の対象)にならなくてはという気持ちもありません」と説かれた。
  • 自分は真理を語って残したので、真理によって自由を目指すべきなのだと戒めたのである。
  • tasmaatiha,aananda, attadiipaa viharatha attasaraNaa, dhamma diipaa dhammasaraNaa anaJJasaraNaa. (DN II.98)
  • 「従ってアーナンダよ、自分を灯にして、自分を頼りにして生きなさい。真理を灯にして、真理を頼りにして、他に依存しないで生きなさい」
  • 自灯明・法灯明の教えとして有名。しかし続きを読まず、これだけ切り抜いて解説するために、トンチンカンな解釈が横行している言葉でもある。

自灯明とは何か?

  • 「自灯明」とは、自己観察することに他ならない。
  • 身体(身)、感覚(受)、こころ(心)、その他の現象(法)を観察するのである。
  • 経典の喩え:森に餌を撒いて狩人が待ちかまえている。獣たちは狩人を信頼して撒餌にがぶりつく。「空腹を満たして幸福になるだろう」と思った獣の期待はそこで終わる。
  • 人間は社会的な檻・精神的な檻(束縛・執着)を作ることで、自由と幸福を得られると思っているが、それは不幸の道なのだ。
  • 自己観察すると、このからくりが見えてくる。
  • そこで人は、新しい「檻」を作るのではなく、自分で作った「檻」を破ることにする。
  • ものごとをありのままに見ることを始めたときから、人は、こころの自由を、こころの安らぎを感じる。
  • 無知が減ると同時に本当の自由も現われてくる。

法灯明とは何か?

  • 法とは真理である。真理とは意見、見方、感想、見解ではない。ありのままの事実である。
  • 無数の「檻」の中に閉じ込められている人に真理は発見しがたい、見えないものだ。
  • 自己観察する人に、道案内として、ガイドラインとして、全ての真理を釈尊が明かされた。
  • 要するに、「法灯明」とは、ブッダの教えを理解することなのだ
  • 「嘘をつくなかれ」などの単純な教えから、超越した禅定・解脱の教えまで、全ての教えは「ひとりだち」を目指したもの。
  • 人の苦しみ、悩み減らして、安らぎ・幸福へ導く。
  • 仏法は人の精神的依存をなくすものである。
  • 真の自由は「得る」 ものではない。真の自由は「なる」 ものなのだ。
  • 世間で語られる「得る」自由は依存そのもの。それは、無常であり、消えるものに他ならない。
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〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜