釋雲照略伝(「住職のひとりごと」より)

備後國分寺住職を務める全雄師が、中外日報「『近代の肖像』危機を拓く」に「釋雲照略伝」を三回にわたって寄稿された。ご自身のブログ「住職のひとりごと」に転載されている。
拙稿『大アジア思想活劇』をお読みいただいた方には釈雲照の名を覚えている方もいるだろう。明治以降の日本仏教史を見渡したとき、もっとも注目すべき生き方をした仏教者のひとりだと思う。その存在感の大きさゆえに無視はできないまでも、しかし前向きな評価はなされてこなかった。全雄師の文章を通じて、雲照律師から現代を生きる我々が受け取るべきダンマについて、思いをはせてみたい。

釋雲照律師(一八二七ー一九〇九)は、その学徳と僧侶としての戒律を厳格に守る生活姿勢、そしてその崇高なる人格に山県有朋伊藤博文大隈重信、沢柳政太郎など、明治の元勲や学者、財界人が帰依し教えを請うた明治の傑僧であった。

ところで、明治五年、肉食妻帯勝手たるべしとの勅令が出ると、高野山では女人禁制を解く旨が宣せられた。

政府勅使を迎えた山内僧侶が、みなこれを了承する中、雲照は一人憤然と立って、「女人禁制は歴代天皇の御詔勅、これを撤廃するはその叡旨に背くものなり、愚衲は歴代天皇の勅使として閣下の罪をたださん」と抗弁したと伝えられている。

釈尊は、国王に対しても師として教えを垂れた。仏祖の訓戒をそのままに生きようとした雲照は、仏教本然のあるべき姿を近代の世で体現した人であった。

丁度雲照が東京に転機を見出した頃、廃仏毀釈の時代は既に過ぎ去ってはいたものの、欧化思想が蔓延し、知識階層の仏教に対する無関心が進行していた。そのため、西洋の学問を学んだ仏教徒たちによって近代的仏教研究が試みられていた。 

しかし雲照は、こうした西洋的方法で仏教を研究するのではなく、仏教の原点へ回帰することで、知識人に自律的覚醒を促すべく論理的合理的な仏教論を展開したのであった。

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