『つらつら日暮らし』の批判記事が再アップ

7月24日に紹介した『つらつら日暮らし』教えを背負ってはならない(後に記事削除)が、本体サイトに再アップされています(こちら)。スマナサーラ長老の名前誤記など直してありました。

ところで、tenjin95氏の強弁に対する、「創価学会ね…。まぁそこまで仰るならいいです。テーラワーダ仏教の日本布教にも希望が持てます。」という皮肉まじりの言葉尻を捕まえて、よくもまぁこれだけ長文を書けるもんだなと感心はいたします。

創価学会ね」云々の直後にした自分のコメント(2005-10-02 日本仏教の「新興宗教化」は命取り)を念頭に読むと、「なんだかなぁ」感が倍増するんですけどね。お釈迦様の言葉が思い起こされます。

1.比丘たちよ。つぎのような三つが、討論に関することがらである。三つとは何か。
比丘たちよ。過去の時については、「過去の時に、このようであった」と語らねばならない。あるいは、比丘たちよ、未来の時については、「未来の時に、このようであろう」と語らねばならない。あるいは、今現在に関しては、「今現在このようである」と語らねばならない。

2.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
比丘たちよ。もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定的に解答せず、分けて答えるべき問いに、分けて解答せず、反問して答えるべき問いに、反問して解答せず、捨て置くべき問いを捨て置かないならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしくないのである。(中略)
※PTS Dic.'he shows forth ill-temper,malice and mistrust'による。

3.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立てず、仮定とするものをはっきりと立てず、了解した論議をはっきりと立てず、方法をはっきり立てないならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。(中略)

4.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
比丘たちよ。もしある人が質問されて、矛盾して答え、他の方に話題をそらし、不機嫌になって敵意を示し不信をあらわにする※ならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。(中略)

5.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
比丘たちよ。もしある人が質問されて、ののしったり、威圧したり、あざけり笑ったり、口ごもったのをあげつらったりするならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。(中略)

比丘たちよ、傾聴に値しない人は、喩えて言えない人※である。傾聴してよい人は、喩えて言える人である。喩えて言える人であるならば、ただひとつの法をみずから知り、ただひとつの法をあまねく知り、ただひとつの法を捨て去り、ただひとつの法を直観する。ただひとつの法をみずから知り、ただひとつの法をあまねく知り、ただひとつの法を捨て去り、ただひとつの法を直観する人であるならば、正しい解脱に触れるのである。
※「喩え」については、相当の漢訳「説処経」では因縁を意味する「因」と訳出しているが、それは取らず。Cf.upanisA= Skt.upaniZad=aupamye PANini 1.4.79
『アングッタラ・ニカーヤ』Ⅲ.67 訳:石飛道子)

※元のやり取り2005-09-282005-09-302005-10-02についてのエントリもご覧下さい。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜