『靖国問題の原点』再評

以前もオススメした三土修平著『靖国問題の原点』の書評です。他の用途で今年の8月に書いた文章ですが、小泉首相が靖国でお賽銭あげたニュースに便乗して掲載します。こちらの感想に加筆したものです。他所で好意的な書評も出てきているようですが、ネットで最初にきちんと論じたのは、僕が最初だもんね。

靖国問題の原点

靖国問題の原点

これは最近出た靖国がらみの出版物のなかでは出色の出来。「靖国問題に関心あるけど、何を読んでいいか分からない」「ただ信念を固めるためだけの読書はしたくない」という人はぜひ手にとってほしい。

近年、「靖国問題」にまつわる出版物は多い。とくに高橋哲哉著『靖国問題』はベストセラーとなり読書人からの評価は高かった。著者の「リベラル」な筆致は靖国「肯定派」から強烈な拒絶反応に遭い、同書をはじめ靖国「反対派」の無知・誤りを正すと称した著書も数多く出版された。

なかでも小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖國論』は読みやすさもあってヒットしている。高橋の生硬な問題提起は、その「論理」の一貫性ゆえに、結果としては靖国神社の価値を守りたい人々(奉賛派)を信念強化の陣地構築(これもある、あれはどうだ、と自分の信念に合致した事実を無限に積み上げてゆく)に駆り立てただけに終わった感もある。

三土修平著『靖国問題の原点』は、かなり異色作だ。著者は靖国国家護持を目指す奉賛派に批判的な立場を取っているが、本書では「靖国問題」の構図を俯瞰することで、むしろ「調停者」の如く振るまっているう。論戦の当事者に向かって、「事実の陣地を築き、論理の銃撃を浴びせる前に、まず地図を見よ」と叫ぶ。

数十年にわたって紛糾してきた靖国問題だが、法廷闘争の次元ではおおむね政教分離の「常識」が形成されてきた。それが政府答弁にも反映されてきた。しかし、法解釈の積み重ねを持ってしても靖国問題を沈静化することは出来ないでいる。国民の大多数は靖国国家護持論も大東亜戦争肯定論も信奉しているわけではないにも関わらず、政教分離原則からいって大いに疑義のある靖国問題がいつまでも「国論を二分」してしまう。否、国論を二分させたければ靖国を突っつけばいい、という政治的に危険な状況がお膳立てされてしまっている。

著者は統計分析の手法を使った意識調査を通じて、靖国が国論を二分する理由を解き明かした。声高き確信犯的な靖国奉賛派と、心情的に靖国に敬意をはらう一般的な日本の庶民との間には、思想要素の分布に明らかな違いが認められる。つまり靖国問題で国論が二分されるとき、靖国神社の側に立つ人々の多くは「戦死者の霊に敬意を払う」「同胞を偲ぶ真心」といった穏健な心情を持つに過ぎなかったのである。彼らが靖国奉賛派と軌を同じくしている理由を、靖国奉賛派のプロパガンダに帰することはできない。著者は靖国「反対派」の歩みを丁寧に振り返りつつ、彼らが裁判闘争などを通じて展開してきた「反靖国」「政教分離」の論理構成が、常識に根ざした、穏健な良識を持った日本の庶民にとっては決定的な違和感を覚えさせるものであり、そのことが穏健な国民を心情的な靖国支持派に追いやってしまったのではないか、と自省を促している。

実際、高橋をはじめとして靖国神社に批判的な人々には、「国民の常識」を肯んじて、その地点から論を発するという意識が希薄である。むしろ「ダメ元」の書生論に踏みとどまることが潔さであると考えている節もある。また彼らの主な戦場は法廷であって、国民一般への呼びかけではない。サイレントマジョリティの声高き代弁者を任ずるのはいつでも靖国神社を奉賛する復古派であり、進歩を標榜する反対派はつねに「国民の常識」を打破し超克することを叫び続けていた。そうした「常識の超克」論をつねに自己の言説にセットしてしまうがゆえに、靖国反対派の論理は、常識の範囲で生きる人々にとって「ついていけない」道になってしまっていたのである。

とりあえず頭が冷えたところで、後半はタイトどおりル靖国問題の「原点」に迫る。戦後民主主義の価値を認める進歩派の人々にとって、靖国は常に警戒の的であった。しかし、「信教の自由」による自己主張を最大限享受しつつ国家による護持を求め続けるという、戦後の靖国神社が選んだ「奇妙な両棲動物」(というよりただの駄々っ子?)的なあり方も、結果として靖国が目標とする国家護持の道を遠ざけてきたのは皮肉な事実である。

神道指令を下し、戦後日本の宗教政策のレールを敷いたGHQはそもそも、靖国神社をどのように「処理」しようとしていたのか。信教の自由、政教分離といった理念が、靖国神社を改革するプロセスで掛け違えてしまったボタン、そして「改革された」靖国神社が抱え込んでしまった後戻りが難しい深刻な矛盾とは何だったのか? 資料を精査しつつ問題の核心を解きほぐすくだりは圧巻だ。靖国神社をめぐって、奉賛派と反対派がお互いの「末法思想」に憔悴感を駆り立てられながら、不毛な二項対立を続ける靖国問題に、ようやく新しい議論の土台を提供する画期的な論考と言えるだろう。

著者のスタンスは、書生論として忌避される高橋哲哉の『靖国問題』にも、憂国の士が大上段から語る小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖國論』にもイマイチ乗れない、穏健なふつうの日本人だと自認する人にも納得できるものだと思う。反戦後民主主義象徴となってしまった靖国神社が、神仏習合的な日本の信仰風土にソフトランディングしてゆく筋道まで展望した筆致は、インテリの不人情からも、保守オヤジの現状居直りとも一線を画した、慈しみのまなざしに満ちている。なるほど、著者は東大寺で得度をされた仏教徒であった。

ところで今年の八月十五日、小泉首相は靖国参拝を断念した。その選択は国民の多数の支持を得て、解散総選挙に打って出た小泉首相にとって、結果的に追い風となっている。稀代の勝負師の嗅覚は、本書の論考を飛び越して、靖国問題の落としどころを見切っていたようにも思える。超克の理想を追う靖国「反対派」も、「信教の自由」を享受しつつ国家護持を夢見る「奉賛派」も、ポピュリズム政治家の「センス」の前にいいように利用されるだけに終わってしまった。その意味ではこの労作を前にして一抹の空しさは禁じえない。

それでも本書は、膠着状態が続く靖国問題をこのまま歯止めのない退廃に落とし込まないために、政治と宗教をめぐり我々が積み上げてきた新しい常識に「納得」という血を通わせ豊かなものとするためにも、もしは信もしは謗、ともに閲すべき一冊であると思う。
(2005年8月17日)

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜