「ラディカルブディストから見た浄土真宗」を読んで


築地本願寺新報2005年10月号に、評論家の宮崎哲弥氏のインタビューが掲載されています。

行を相対化していく

最近の仏教ブームは教学的や座学的なものじゃなく、テーラワーダ(南方)仏教系の修行的なものです。それが一概に悪いこととは思いませんが、私が違和感を感じるのは、ブームの底に見える、日本仏教に対する否定的な感情です。水野弘元先生が「主定主義」と批判された思潮、昔の言葉で言えば禅定が中心だという趣の主張や立場がうかがえるのに対して、少し違うのではないかと感じているわけです。もちろん修行は仏教の中では大切な要素ではあります。しかし仏教の独自性をどこに見るかと言えば、行を意味的な体系の中でどのように解釈して、かつ仏教的な体系の中に位置づけるかが重要なわけです。行がもてはやされることによって、行によって得たものを何か特異な体験ととらえていくと、やがてはこれに特権的な地位を与える方向にも進んでいって大乗の意味は狭小になってしまうという問題意識があるんです。そこで行というものを徹底的に相対化していく方向を追求していくと、浄土真宗に行き着いたんですね。(後略)

ふむふむ。宮崎哲哉さんが、さらっと「テーラワーダ」という言葉を使って下さっているのには好感度がアップしました(笑)。しかし、「テーラワーダ(南方)仏教系の修行的なもの」で仏教ブームを代表させてしまうのは過剰評価ではないか…とゆー疑問は置いといても、「テーラワーダ(南方)仏教系の修行的なもの」を「主定主義」とカテゴライズすんのは、ちょっと違うと思います。「主定主義」の可否はともかく、少なくとも日本におけるテーラワーダ系の代表格、スマナサーラ長老の仰っていることはそれとまったく違います。

日本仏教で理解されている修行をサマタ(止)つまり禅定にカテゴライズして、テーラワーダのヴィパッサナー(観)との違いをクローズアップするという説明がいちばん分かりやすいですが、それこそ大乗仏教の「主定主義」の方々から批判の矢が降ってくる欠点のあるモノイイでもあります。大乗仏典にも止・観の概念も大乗的に解釈された行法もありますから。「主定主義」という批判のフレームからは逃れられない可能性がある。

そういう切り口を乗り越えたところで、宮崎哲弥さんが(水野弘元博士を引いて)言うところの「主定主義」と「テーラワーダ(南方)仏教系の修行的なもの」とが次元を異にするということを、スマナサーラ長老が表明しているテキストがあります。PDFで公開されているSallekha-sutta(サッレーカ・スッタ) 戒め --「自己」の取扱説明書--』です。

これは中部経典第8「サッレーカ・スッタ(削減経)」の解説なのですが、釈尊が禅定についてその限界も含めて知り尽くした上で、悟りへの道を説かれたのだ、ということが明確に論証されている冊子です。ここまではっきり仏道(実践)の王道を打ち出されると、巷で行われている仏教をめぐる論争が、まったくアホらしく思えてしまうことは否めません。

またチュンダよ、このようなことがあり得ます。ここにある比丘がいるとします。彼が、幸福感(楽)を無くし、苦を無くし、また以前既に喜びと憂いが消えていることによって、非苦非楽である清らかな平安のみに気づきがある第四禅定に達しているとします。彼はこのように考えるかもしれません、『私は戒めているぞ』と。しかしチュンダよ、これらは聖者の修行法 (仏教の修行法 ariyassa vinaya) から見ると"戒め"(sallekha)とは言えません。これらは聖者の修行法においては"現実的な悦楽"と言います。

ね? もっと高度な無色界の禅定にしたって"安穏でいる"(santa-vihaara)」というくらいのもので、"戒め"(sallekha)、つまり煩悩の削減という修行にはならないと、釈尊は仰っています。禅定の頂点、非想非非想処まで言及したところでのスマナサーラ長老の解説を引いてみましょう。

《guide》非想非非想と言うともっとわけの分からない言葉です。空を認識して禅定に達した修行者はさらに集中して瞑想を続けるのです。その時の瞑想の対象は空を認識したこころです。その時こころは外の世界と全く関わりがないのです。こころにあったのは空という概念だけですが、それさえも消えるのです。この状態は識があるともないとも言えない状態です。理解しやすくするために「識」という言葉を使いましたが、saJJaaは仏教では「想」と訳すものです。実は「想」は識ではなく、識を引き起こすこころのしるし、信号なのです。
普通の人の認識過程を例にして説明しましょう。例えば、目から光の情報が入ります。その情報に対してこころに何か信号が起こります。この信号が、見えたという認識を引き起こすのです。この信号を想と言うのです。瞑想する人のこころからこの信号が消えるので非想になりますが、こころが停止したわけではないので非想とも言えません。だから非非想なのです。これ以上にはこころを向上させることはできません。これがこころの成長の頂点です。しかしこれは、お釈迦様が語られる解脱ではありません。こころがこの状態にある時は煩悩は機能していないのですが、また認識することを始めるといろいろと煩悩が生まれるのです。ですから修行者が最頂点に達していても、お釈迦様はしっかり戒めている人だとは認めておられません。
無色界の説明を読むとなかなか達することができそうもないと思われるでしょう。実はその通りです。そこまでの能力のある人は滅多にないかもしれません。そうなると修行というのはある限られた一部の人間の特権になりかねません。しかしできるレベルまででもこころを向上させることは、現実的に苦を乗り越えて楽を感じていることになるのでチャレンジしてみても悪くないと思います。
お釈迦様は完全なる解脱を語られただけではなく、それが万人に実現できるような方法も説かれました。解脱を得て、苦しみから完全に脱出するための努力こそが本当の「戒め sallekha」であると説かれたのです。では真の戒めとはどのようなものか、それは本当に万人に実行できるものかどうか、経典の続きを読んでみましょう。

50ページの小冊子だから、続きはダウンロードして読んでみてくださいな。

とにかく中部経典の最初の10経(根本法門章)でも精読すれば、ブッダの道が「なんたら主義」なぞ最初から完全に乗り越えていることは簡単に理解できると思いますけど。「行によって得たものを何か特異な体験ととらえていく」なんてのは大乗仏教だけが犯してきた基本的な誤りですし、その誤りがなければ浄土教自体が成立しなかった。そんな誤りのつじつまあわせの極北である浄土真宗に「行というものを徹底的に相対化していく方向」とか変なものを見て愛でてる暇があったら、中部経典第2「サッバーサワ・スッタ(一切煩悩経)」に従って、見(dassana)によって断たれる煩悩をぶっちぎって預流果になってくださいな。禅定せんでも、頭が極端にはっきりすればもう聖者です。知的資産としての大乗仏教の「使い道」はその後で考えればいいんじゃないでしょうか?

ちなみに、仏教伝道協会が今年1月からアメリカ・ロサンゼルスで仏教テレビ番組(英語)をスタートさせていて、宮崎哲弥さんも褒めてるケネス・タナカさんが進行役を務めています。この番組にスマナサーラ長老もゲストとして2回出演して、ヴィパッサナー実践のレクチャーをされました。ケネス・タナカさんの講義も僕が見た限りではほとんど初期仏教の話に終始していて、浄土真宗の星といえども、海外に出て行ったら、祖師ではなく釈尊の弟子として振舞わざるを得ないのだな、と実感したものでした。また、そういうスタンスだからこそ、ケネス・タナカさんの語り口は新鮮なのでしょうね。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜